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第6回 宇都宮にあった文化の灯「仮面館」

元参議院議員 谷 博之氏インタビュー


栃木県を代表する国会議員の1人として長く活動し、現在もさまざまな社会活動に関わっている、谷博之さん(80歳)。若き日の谷さんが情熱を注いだもののひとつに、栃木県初のライブハウスと言われる「仮面館」があります。宇都宮に新しい文化をもたらした同店の歴史と意義について、お話しいただきました。


1 アートスペース「仮面館」の生まれた日


谷 仮面館がオープンしたのは1974(昭和49)年12月27日のことでした。今年が2024年ですから、50年前になります。

 場所は簗瀬町で、石井街道と砂田街道の交差点の西南の角にありました。

 アルコールや軽食喫茶の店で、スタッフはボランティアで運営されていました。ただし普通の喫茶店ではなく、毎日のようにライブやイベントが開催され、若者が多く集る「県下初のライブ・ハウス」「アートスペース」として、広く知られていました。

 店は年中無休(正月だけは1週間休み)で、毎日午後3時から夜11時までの営業。入場は無料でしたが、ライブによっては入場料をいただくこともありました。

 店のオーナーは、その当時シンガー日鋼(株)に総務部長として在籍していた、野添嘉久さん(故人)でした。いわば副業で経営していたのですが、会社もそれを容認していたようです。

 仮面館は、土地は借地で、野添さんが自己負担で2階建ての建物を建築しました。1階をうどん屋(さかえ屋)さんに貸し、家賃をもらっていました。うどん屋さんの横にある狭い階段を登った2階が仮面館で、敷地面積は23・8坪、78・54平方メートル。今にして思えば、かなり狭い店舗でした。そこに、ライブやイベントの時には、日によっては70~80人ものお客さんが入っていました。

 経営者の野添さんは、音響や設備等に力を入れていましたので、それも、出演者に人気があったポイントだったと思います。

 「ライブハウス」と称していたように、開店当初は音楽が中心でしたが、早いうちから落語や、映画上映、講演会など、いろいろな分野に広がっていきました。

 仮面館は約5年の間営業していましたが、終わった段階で1200回ぐらいのさまざまな企画を実施していました。年にすると約240回、つまり1年の3分の2くらいは、そういうイベントをやっていた計算になります。


——「仮面館」という名前は、誰がつけたのですか?

谷 野添さんです。理由は聞いていないけれども、何かしらのひらめきで付けたのだと思います。

——20坪の狭いスペースにバンドが入って、観客が70〜80人いたというのが、ちょっと想像できないです。

谷 それどころか、有名なアーティストが来ると100名近い人たちが押しかけてきました。もちろん店に入り切らず、階段(すれ違いができないぐらいに狭かったのですが)にもずっと人が並んでいました。路上まであふれた時もありました。今から思うと、これは完全に消防法違反です。よく床底が抜けなかったなと、今振り返るとぞっとします。

——客席とステージは分かれていたのですか。

谷 そうです。ちなみに客席のテーブルは、ケーブルドラム(電線を巻く土台として作られた、大きな糸巻き状のもの)を転用していました。床には落花生の殻から何から散らばって、すごい状態でした。

——土地は借地だったのですか?

谷 そうです。オーナーの野添さんが、借地に自分のお金で建物を建てました。1階のうどん屋は、野添さんが賃料を取って入っていたんです。それが経営の助けになっていたので、後にそこが出てしまった時には、大変困っていました。


2 オーナー・野添嘉久さん


谷 野添さんはシンガー日鋼(株)——もっと昔はパインミシンって言っていました。今は会社自体がなくなり、その跡地にベルモールができています——そこの総務部長をやっていた人です。今になってみれば、民間の、5~600人の従業員が働いている会社で、現職の総務部長が副業にライブハウス経営をするのは、普通は認められないと思うんです。当時のシンガー日鋼は、ずいぶんとおおらかな会社だったのだと思います。

 この仮面館をスタートさせた当時は、全国的にもライブハウスはほとんどありません。もちろん栃木県内には皆無でした。彼は交友範囲が広く、その中にはミュージシャンやアーティストの知己もいましたから、彼らが活動できる場所を作りたいという思いがあったのだと思います。


3 仮面館の運営と「知能犯会議」


谷 仮面館には、シンクタンクのような組織ができていました。「知能犯会議」という名称でした。仮面館の企画や事業の実施などについては、この「知能犯会議」のメンバーと野添氏との間で議論、決定・実行をしていました。

 メンバーはみんなアマチュアのボランティアで、人数は(時期によっても違いますが)数十人。この中に私もいました。当時私は、社会党の国会議員だった稲葉誠一さんの地元秘書をやっていたのですが、それと並行して仮面館にも関わっていたのです。

 会合は毎週、水曜日の夕方だったと思います。場所は野添さんの自宅でした。2間の社宅でしたから、大勢が押しかけるとかなり狭く感じました。その1部屋にみんなが集まり、酒を飲みながら、夜遅くまでワイワイ騒ぎつつ議論し合っていました。そして次の日の朝、寝ぼけ眼で散会していきました。

 フスマ1つとなりの部屋には、野添さんの家族(3人)も寝ていたのですが、うるさくて眠れなかったと思います。実際、のちに野添さんの長男にそう言われました。


——「知能犯会議」は、仮面館ができる前からあったのですか。

谷 スタートの時点からありました。メンバーは那須にある三斗小屋温泉(※)でアルバイトをしていた人たち——その内の何人かは、のちに随想舎という出版社を立ち上げています——や、宇都宮大学の学生、それから後に田中正造の活動に関わっていく人たちなどでした。

 作家の立松和平さんも、メンバーに入っていました。当時はまだ作家になる前で、宇都宮市役所の職員。現在のさるやま町に住んでいました。自転車で通っていて、その途中で仮面館に来ていました。その頃から彼は文学青年で、いろんな特別な話も彼の口から出ていました。

——企画は「知能犯会議」で決めていたのですね。

谷 企画や、出演者の発掘、お金のことなど、仮面館の運営全般を議論していました。


※三斗小屋温泉 那須にある温泉で、現在でも歩いて2時間ほどかかる「秘湯」。そこにある温泉宿のひとつでアルバイトをしていた若者たちが、仮面館の活動に関わっていった。


4 仮面館寄席など出演者について


谷 1974(昭和49)年12月27日の柿落としには、シンガーソングライターの高田渡さんが出演してくれました。翌28日には、当時まだ無名だった坂本龍一さんが出演(音大在学時)してくれました。彼はのちに世界的な音楽家として活躍し、亡くなった今も多くの人から尊敬されています。さらに、4日目の30日にはシンガーソングライターの友部正人さんが出演、すでに多くのファンがいた人でしたから、満員札止めになりました。

 もちろん、地元のミュージシャンも出演しています。オープン5日目の12月31日には地元ジャズメンが参加して徹夜でセッションをしています。大晦日とはいえ、近所迷惑だったと思います。

 年が明けて1月8日には、音楽ではなく落語の独演会が開かれました。演じたのは、この後に仮面館が営業をやめるまでの長きにわたって支えてくれた、のんき亭喜楽さん。この方は、本名は清水一朗さんといって宇都宮市の職員でした。

 寄席の上演を皮切りに、その後民謡や映画上映、セミナーや講演会など、毎日のように何らかのイベントが開催されるようになりました。


——その後、どのようなミュージシャンが演奏していたのでしょう。

谷 ジャンルはもうさまざまで、民謡からパンクロックまでありました。坂本龍一のように、仮面館に出た当時は無名であっても、その後有名になった人もたくさんいます。

 当時のメモを見ると、高田渡、坂本龍一、なぎら健壱、つのだ☆ひろ、遠藤賢司、新谷のり子、中島みゆき、斉藤哲夫、さとう宗幸、カルメン・マキ、スターリンなど、そうそうたるメンバーが演奏しています。しかも、一度きりでなく何度も来ていた人も、少なくありませんでした。

——どういったところに魅力を感じていたのでしょう。

谷 一つには、全国的にもライブハウスのはしりだったことがあります。北関東では仮面館が最初だったと思います。だから次第に、出演者側から「出たい」と言ってくれることが多くなります。東京でも名前が知られてくるようになり、そのおかげで2年目は順調でした。

 当時、出演者について、アマチュアを中心に選ぼうと決めていました。出演料は原則無し。ただ東京から来た人には交通費は出すと決めました。また出演者の物販も許可していました。そうやって、店の経営への負担を少しでも小さくしていたのです。

——ミュージシャン以外の出演者はどんな人が来ていましたか。

谷 落語ですと、さきほどお話ししたのんき亭喜楽さんの師匠で「三笑亭笑三」という方が来てくださったことがありました。また講座やセミナーでは、地元の小児科医や現役の国会議員(私が地元秘書をしていた稲葉さん)など、さまざまな人が登壇されました。私も話したことがあります。

 その他では朗読や影絵劇、紙芝居、のど自慢大会なども行われました。


5 苦しい経営の常態化


谷 店の経営は、最初から最後までずっと苦しいままでした。

 店の経営は毎月赤字。おおむね7〜8万、現在に換算すると10万ぐらいずつ赤字が出ていました。その分は、野添さんが自腹を切っていました。給料やボーナスのほとんどを注ぎ込んでいたと思います。

 1階のうどん屋から家賃収入はあるし、出演者に出演料は払わない。働いている人も無償ボランティア。それでどうしてそんなに赤字が出ていたかと言えば、一つにはどんぶり勘定で経営がルーズだったことが挙げられます。誰も収支を把握していないのですから、無駄な費用がどんどん出ていました。また、働いている人は無償ボランティアですから金はかかりませんが、一方で飲食も無料でしていたのです。店舗経営の経験者がいませんでしたから、うまくやりくりできなかったのだと思います。

 野添さんも毎月の持ち出しの多さに根を上げて、2年目の時点で「誰か経営を代わってくれないか」と口にするようになりました。


——毎月そんなに赤字が出ていて、よく続きましたね。

谷 当時で年間70万円ほどの赤字ですから、野添さんがいくらシンガー日鋼の総務部長でも大変だったでしょう。おそらく借金もされていたと思います。

——ライブの時に入場料は取っていなかったのですか。

谷 原則的には取りませんでしたが、ケース・バイ・ケースで、取る時もありました。とはいえ1,000円くらいですから、その日だけ見れば黒字になっても、経営全体では焼石に水でした。

 そもそも、金の出し入れもチェックする人がいませんでした。それが赤字の大きな原因だったはずです。

——野添さん自身にビジネスをしている感覚はあったのでしょうか。

谷 なかったと思います。ああいうことをやってみたかっただけで、商売としてはやっていなかったのでしょう。のちに奥様も店を手伝うようになりますが、それでも経営の立て直しにはつながりませんでした。

 野添さんは店の経営状態について、最初は一切、知能犯会議では言いませんでした。しかし3年目頃から「もう厳しい」という話が出るようになりました。「誰か経営を代わってくれる人はいないか」と。

 それで、店で出していたミニコミ誌「仮面館通信」で募集をかけました。応募はありましたが、結局最後まで経営を任せられる人は現れませんでした。

 一時期、シンガー日鋼の会社でもちょっと問題になっていました。総務部長ともあろう者が、そういうことやっていていいのかと。そういうことも、野添さんの悩みを深めたのではないでしょうか。


6 政治性・社会性のある活動


谷 昭和52年(1977)、3年目に入るにあたって、「知能犯会議」が新たな具体的な活動計画を練っていて発表しました。その内のいくつかは、(1)原爆の図 丸木美術館(埼玉県東松山市、丸木位里・俊の2人)のバス見学(2)チャップリン映画の全ての連続上映(3)水俣病関係の映画上映と講演活動、といったものでした。

 当時は上映する映画も安保闘争や成田空港三里塚といったテーマのものが多かったです。そういった映画は普通の映画館ではまず掛けられませんから、仮面館が受け皿になっていました。そのため、警察からも危ない存在と見られていた節があります。反体制的な動きも受け入れていました。

 ただ、学生運動の拠点となったとか、そういうことは一切なかった。すでにそういう時代ではなくなっていました。宇都宮大学も学生運動が盛んな時期がありましたが、仮面館がオープンした頃は、すでに下火になっていました。


——野添さんが反体制運動をやろうとしていた、ということではなかった?

谷 そうではないですが、そういう運動にシンパシーを感じる人たちが比較的集まっていたということだと思います。それが、やがて足尾問題などに傾注していくきっかけにもなったのではないかと思います。

——仮面館があった70年代中半から80年代の中頃は、世の中はまだそんなに豊かでもありませんでしたが、社会問題に目覚める人が増え始めていました。そういう状況の中で、足尾の問題への取り組みが始まったのでしょうか。

谷 そこへつながると思います。

 特に野添さんの関心が、足尾や水俣へと移っていきました。講師を招いた勉強会や関連する映画の上映会などが増えていきます。


7 足尾・水俣問題へのめり込む


谷 仮面館がオープンする1年前の1973(昭和48)年に、立松和平さんや野添さん、私などのメンバーで「谷中村強制破壊を考える会」が結成されました。それが映画「ドキュメント『谷中村』」(→『鉱毒悲歌』)の撮影に繋がっていきます。

 この撮影は、最終的に約2万フィート余のラッシュフィルムを撮影した後、資金のメドがつかなくなり、中止されました。中心人物だった野添さんや立松和平さんもその後鬼籍に入り、フィルムは放置されていました。しかし1983(昭和58)年6月17日に『鉱毒悲歌』として完成しました。映画はこの日から全国上映を展開、野添さんもこのフィルムをもって、北海道佐呂間の栃木部落(鉱毒の影響で明治時代に栃木から開拓民として移住)を訪れています。

 その後、野添さんは亡くなるまで、足尾の鉱毒事件の内容を追い求めました。1980(昭和55)年には「市民塾足尾」という組織を立ち上げています。ここでは、環境学者・公害問題研究家の宇井純さんと関係が生まれたりしています。また、後に田中正造の研究を行う「田中正造大学」の中核メンバーも参加していました。

 多分、この頃から野添さんの中で、仮面館よりも「市民塾足尾」の比重が大きくなっていったのでしょう。


——今、足尾で行われている植林などの活動は、第1次仮面館から始まったと考えていいのでしょうか。

谷 間違いないですね。少なくとも萌芽は仮面館にありました。

 またそれを通じて、野添さんの関心は、足尾や水俣に移っていきました。これは少し先のことですが、野添さんは水俣に公害専門の大学を作ろうとしていました。残念ながら叶いませんでしたが、それほど真剣に活動に関わっていたのです。

 一方で仮面館の活動が全てそちらに向いたわけではなく、今まで通りライブもありましたし、私が立ち上げた「自主上映の会」では『カサブランカ』や『禁じられた遊び』といった映画なども上映しました。当時はストリーミングどころか映像ソフトもほぼ市販されていませんでしたから、人々が名画に触れる機会は少なかったのです。東京のように名画座がたくさんあれば別ですが、宇都宮にはロードショー上映の映画館しかありませんでした。


8 仮面館の終焉


谷 先ほども言いましたが、野添さんは1978(昭和53)年半ば頃から、仮面館の経営移譲を口にするようになりました。野添さんは「資金・スタッフ不足によって、経営上の見通しがたたなくなってしまったこと」を理由に挙げ「この際やる気のあるあらたな経営者の発掘とその人への経営移譲を図りたい」と言っていました。

 そこで同年後半から、仮面館通信を通してあらたな経営者の発掘を行ないましたが、適任者は現れませんでした。そのうちにマスコミでも仮面館の経営難が大きく取り上げられてしまい、ついに「仮面館の一時休館」が決定しました。休館日は1979(昭和54)年2月28日。スタートから5年2カ月経っていました。

 その後、いくつかのイベントは行われましたが再建には繋がらず、同年5月8日をもって正式に閉館しました。このことはマスコミにも大きく取り上げられ、残念の声が大きく上がりました。シメのイベントは、長く仮面館を支えてくれた、のんき亭喜楽(清水一朗)さんの落語でした。

 野添さん自身も経営の見通しが立たなくなった段階で、既に足尾、水俣問題の活動に専心的に取り組んでいましたから、再建の目処は立ちませんでした。

 休館については新聞にも大きく記事が掲載されました。「大幅赤字には勝てず ”文化の灯”7年、消える」と大きく報道されました。また閉館に当っての特別ライブとして、「青葉城恋歌」で名高いさとう宗幸さんが来館、特別出演してくれました。

 その後、三斗小屋メンバーが中心になって第2次仮面館がスタートしますが、やはり経営面での苦労が続き、1982(昭和57)年に完全に終焉を迎えました。


9 その後の野添嘉久さん


谷 仮面館閉館後、野添さんは「足尾」「水俣」を活動の中心にすえて、企業公害という新しい社会問題の分野に焦点をあてていました。

 1987(昭和62)年4月、勤務先のシンガー日鋼(株)が経営悪化したのを機に野添さんは退職して、家族5人と家財道具をトラックに積み、熊本県水俣に出発しました。元環境庁長官大石武一氏の「水俣大学を創る会」の創設呼びかけに応じての行動でした。

 野添さんはその地で、私大「水俣大学」の創立を目指して頑張っていましたが、1996(平成8)年に副鼻腔癌(ふくびくうがん)と診断され、2年後の1988(平成10)年2月23日、他界しました。享年58歳でした。

※シンガー日鋼は2000(平成12)年に会社解散。


10 仮面館が残したもの


谷 仮面館の歴史はトータルでも約8年と決して長い期間ではありませんでしたが、その期間宇都宮市に文化と賑わいの灯をともした功績は、言葉では言い尽くせないものがありました。そして仮面館の活動を土台として、多くの仲間達の絆が生まれたことや、そこからさまざまな活動が発展していったことは、今でも貴重な財産として語り継がれています。

 いま振り返ると、私は仮面館に来ていた人たちの気持ちが、よく分かるような気がします。

 あそこで出会った人たちは、みんな生き生きとしていました。それぞれが自由に、自分のやりたいことを語り合っていました。そういう場所は、今の宇都宮市にあるのでしょうか。自らが企画して、自らが実行して、自らがそれを考えて次につなげていくことのできる場所。そんな場所だったのです。

 私は、仮面館そのものは第1次、第2次で全部終わったけど、そこに関わった人が、ある人は足尾の問題に取り組み、ある人は出版社を立ち上げ、ある人は音楽を続けている——そうやっていろいろな分野で活躍していると考えれば、仮面館は素晴らしい存在だったと評価できると思います。そして、再びそういう場所が生まれて欲しいと強く思います。


——仮面館オープン当時、先生は学生だったんですか。

谷 いや、私は社会党の衆議院議員・稲葉誠一さんの地元の第1秘書でした。

——仮面館との関わりはどこから生まれたのですか。

谷 シンガー日鋼の労働組合の活動の中で知り合いになったのがきっかけですね。そこから、野添さんとの人間関係が始まったのです。

 私は1979(昭和54)年に宇都宮市議会議員になっています。仮面館のオープンの数年後ですから、その時点ではすでに「自分は政治の道を歩むのだ」という決意をしていました。

 そういう時に、選挙とは関係のない仮面館と関わり、知能犯会議のメンバーとして毎週のように酒を飲んでは議論していたのが、果たして良かったのかどうか、もっと選挙運動に力を入れるべきだったのではないかと思うこともありますが、しかし野添さんや知能犯会議のメンバーという仲間と共に活動できたことは、得難い体験だったし、得たものも大きかったと考えています。

 自分一人であれば、足尾の問題もあんなに深く理解できなかったかも知れません。社会問題や政治についての理解も、仮面館での活動を通じて深まったことは、間違いないでしょう。

——先生だけではなく、仮面館に関わった多くの人たちが何らかの種を得て、それを自分なりに芽吹かせていったのでしょう。

谷 そうです。そこなんですよ、仮面館の果たした大きな役割は。

——さまざまな興味深いお話をしていただき、ありがとうございました。



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