top of page

第5回 戦後復興と宇都宮市の印刷業

株式会社井上総合印刷 代表取締役会長

井上光夫さんインタビュー


昭和14(1939)年に鹿沼市で生まれた、株式会社井上総合印刷の井上光夫会長は、戦後復興期に印刷業界に入り、それ以来さまざまに変化する時代のニーズに対応しながら、会社を守り育てて来ました。井上会長が印刷業に関わり続けた約70年は、宇都宮市の戦後を知ろうとする人にとって、確かな道標となるでしょう。


1 印刷業に入るまで

——今回は井上総合印刷の井上光夫会長をお迎えして、印刷をキーワードに戦後宇都宮市の発展について、いろいろうかがいたいと思います。

 最初に、ご出身地を教えていただけますか。

井上 鹿沼市の天神町です。昭和14(1939)年にそこで生まれたんですが、当時私の父は「井桁屋」という屋号で八百屋を営んでいました。

しかし昭和16(1941)年に太平洋戦争が始まり、17年頃には仕入れるものがなくなってしまいました。それで父は仕方なく八百屋を廃業し、母(配偶者)の実家がある宇都宮市に来ました。その後、経緯は知りませんが一度満州に渡っています。しかしまもなく怪我をして戻ってきて、日光の警察署に入りました。そして田母沢御用邸にて皇太子(現・上皇様)が戦禍を避けて滞在しておられたので、その警備をやっていました。それがちょうど、私が5歳ぐらいの時でした。

 その後、昭和19年頃に、今度は日光より10〜15キロ離れた野口(現・日光市野口 現在の日光だいや川公園近辺の地域)という所に移り住みました。そこは極めて自然豊かで、清水がたくさん流れておりまして、小砂利の上にワサビ菜を栽培している風景が一面に広がっていて、今思い出しても夢のような場所でした。

 終戦はそこで迎えました。天皇陛下の玉音放送(終戦の詔)を聞いて「日本は負けたんだ」と知りました。

 戦後になって、私たち一家は鬼怒川温泉に行ったり栗山村に行ったり、何カ所か巡った後今市(現・日光市)に昭和29年に戻って来ました。

 その頃の私は、字を書いたり絵を描いたりするのが大好きでした。その趣味を生かしてお金になる仕事があるよ、と聞いて、昭和30(1955)年4月に宇都宮公共職業補導所(昭和33年に「職業訓練所」に改称)に入所し、謄写版印刷を学んだのです。

 職業補導所ができた背景を説明しますと、当時はものすごい失業時代で、その対策の一つとして、労働者に技術を身につけてもらうためにさまざまな技術を教えていました。その一つに謄写版印刷があったのです。謄写版印刷、いわゆるガリ版印刷ですね。今はガリ版と言ってもわからなくなってしまいました。表面にロウを塗って作った「原紙」に鉄筆で字や絵を書いて、それを用紙の上に置いて、ローラーを使って印刷します。すると、ロウを塗ったところだけがインクが通って印刷用紙に写り、印刷物が出来る仕組みでした。

 印刷業というのは大別すると活版印刷と平版印刷(当時は石版といわれました。)そして、孔版印刷の3つに大別されています。活版印刷は活字を使って印刷するもので、それなりに技術や経験が求められます。一方の孔版印刷は軽印刷といわれる印刷で使われていた技法で、謄写版印刷もその一つです。こちらは習得までにさほど時間がかかりません。

 謄写版印刷(現在の複写機のようなもの)は当時大変需要がありましたから、失業者の職業訓練としては最適でした。仕事をすればすぐにお金になりました。

 当時、訓練期間は6カ月でした。職業訓練を希望する失業者は大変多かったですから、人気がありました。旭中学校を借りて入学試験をやったのですが、20〜30人しか採らないところに300人くらい応募してきたんですから競争率の高いハードルでした。

 ここで謄写版印刷の職業訓練を受けたことが、私が印刷業界に入るきっかけとなりました。


2 戦後の職業事情

井上 当時、ガリ版は重宝がられましたから、卒業生は学校や企業などいろいろなところに就職できました。私はたまたま印刷屋さんに就職したんですが、当時は現在ほど労働環境や福利厚生が整っていませんでしたから、苦労も多かったのです。例えば今は当たり前になっている「年休制度」はありませんでした。休みといえば月に2回の日曜日程度で、それ以外はありませんでした。徹底的に働け、働けという時代でした。

 昭和30(1955)年は、まだ戦後10年しか経っていません。宇都宮大空襲は昭和20(1945)年の7月で、これにより下町を中心に大きな被害を受けました。ですから宇都宮市には、10年経って少しずつ新しい家や建物ができていました。

 その一方で、戦後わずか10年の間に「神武景気」(昭和29年12月〜昭和32年6月)という好景気の波が来ていました。その前は大失業時代でしたが、私がガリ版を習った昭和30年あたりから景気が一変して来たんです。その結果、失業者も減り、失対事業も役割を終えていきます。

 ある意味で歴史の転換期でした。そういう時期にガリ版印刷に関われたのは、私にとって大きな経験でした。

——印刷会社に就職されたとのことですが、どちらの会社だったのでしょうか。

井上 当時、中河原町にあった「双葉孔版社」という会社で、今はもうありません。当時でも社員は3人(ガリ切る人と、謄写版で印刷する人と、製本する人)で、それに経営者という小さな会社でした。

——そこでは何年くらい働いておられたのですか?

井上 実は、入社して業務内容を知った途端「これは大変だ、すぐ辞めよう」と思ったんです(笑)。しかし両親から「石の上にも3年」と言われていましたから、3年はがんばろうと思い直し、一生懸命仕事に取り組みました。

 ちょうど3年目に体を壊してしまったので、会社を辞めて実家に戻り、大体6カ月ぐらい静養しました。それからまた宇都宮市に出てきて、今度は和孔堂螺良印刷所という会社に入れてもらいました。

 和孔堂螺良印刷所には当時「螺良和男」という人がいました。この方は素晴らしい人で、風流人などと一言で表現できる人ではなく、短歌でござれ川柳でござれ詩でござれ、いろいろな文化に秀でた方でした。中国に出征していたからか、中国の歴史にも詳しい方でした。この方には、本当にいろいろなことを教えていただきました。栃木県の県議会議までなさった方でした。螺良昭人・県議会議員の祖父にあたります。


3 昭和30〜50年代の賃金事情

——双葉孔版社さん当時の賃金は、いくらくらいでしたか?

井上 その頃は、住み込みで月500円でした。住居代、食事代を引いて、手取り500円。当時、ラーメン1杯30円か40円です。理容室も40円とかでしたね。最近は理容室は4,000円くらいとのことなので、大体の感じは分かっていただけると思います。

 双葉孔版社の500円というのは、当時でも低い方でした。当時の労働者の賃金は月に8,000円とか1万円くらいだったはずです。双葉孔版社で手取り500円だったのは、食べた分だけ引かれたからでしょう。

——次に入社した和孔堂さんも孔版ですか?

井上 いえ、違いました。その時は既に印刷技術が変わっていて、主流はタイプ印刷になっていました。

——和孔堂さんは、もう孔版ではなく和文タイプライター(英文タイプの日本語といった方がわかりやすいと思います)が主流になっていたのですね。

井上 活版はやっていません。和文タイプで原紙に活字を打ち付けて転写し、それを小さい卓上の輪転機で印刷しました。

——そこには何年ぐらいらっしゃったんですか。

井上 先ほど話した螺良和男さんにいろいろなことを教えていただきながら、7年間勤務しました。現在の私がいるのは螺良和男さんがあってのことだと思ってます。

——当時の給料はどのくらいでしたか?

井上 15~16万円(※2)です。普通のサラリーマンの給料と同じぐらいです。

——でも当時の15~16(?)万円は、いいですよね。昭和で言うと何年頃ですか?

井上 昭和35年から40年の間ですね、大体。


※1  活字を原稿に合わせて拾って組み合わせ、それを版として印刷する手法。その後写真植字が主流になって廃れましたが、現在も名刺印刷で使われることがあります。

※2  昭和30年代の平均的な月収は約2万円。10万円を超えるのは昭和50年前後です。


4 井上総合印刷所創業の頃

——「井上総合印刷」の創業についてお聞きします。創業は何年ですか?

井上 昭和41(1966)年です。その時の社名は「井上印刷」でした。その後、有限会社にしようとした時に、その名前ですでに登記されていることがわかり「井上総合印刷所」にしました(※1)。住所は現在同様、岩曽町でした。

 スタートは、タイプ1台と中古の印刷機だけ。乗り物もオートバイ1台でした。当時の事業の中心はタイプ印刷で、お客様は企業や県、市町村が多かったですね。その頃は夜なべ作業も多かったです。ただ、急ぎと言っても、今日持ってきて明日の朝まで——というような仕事は、当時はほとんどありませんでした。仕事内容は総会資料や会議資料が多かったと思います。その他では文集とか文芸誌なども手掛けました。小中学校の卒業記念文集なども、たくさんやりました。

——最初からタイプ印刷ということは、活版印刷はやってないんですね。

井上 いや、活版もやっていました。名刺とかハガキの注文を受けると、必要な活字を買ってきて組んで、活版で印刷していました。ただそういうものはいわゆる「端物」で、大きな収入にはなりません。中心はあくまでタイプ印刷でした。

 私が業界に入ったのはガリ版でしたが、印刷技術がどんどん進化していって、昭和35(1960)年〜38(1963)年くらいになったら、もうタイプ印刷が主流になってしまい、ガリ版はあまり需要がなくなってしまいました。

 私が創業した昭和41(1966)年頃はまだ和文タイプ印刷が主流だったんですが、その後にオフセット印刷が登場します。私がオフセット印刷を始めたのは、市内ではかなり速い方でした。もちろん和光堂さんや松井ピ・テ・オ印刷さんはすぐに導入しましたが、その半年後くらいには私も始めていました。

——オフセット印刷というのはフィルムPS版(平版)を使います。文字打ちも、それまでの和文タイプではなく、写真植字(写植)機を使うわけですね。手動写植とは印刷紙にレンズを通し文字を印字するという仕組みでした。

井上 また和文タイプにカーボンっていうのを入れて、きれいな活字にして写植の代替をやっていました。それがPTO印刷でした。これはいわば簡単なオフセット印刷です。

——ガリ版は、いわば「手書きのイミテーション」で、活字にいかに似せて書くかという技術が求められました。活字を使えばいいと私などは思うのですが、当時は人件費が安かったということでしょうか?

井上 当時は、それ以外の技術がありませんでしたからね。例えば県議会や県庁の議事録だって、みんなガリ版だったんです。文集などもそうでした。また、ガリ版の技術者が相当いたということも関係します。私のように印刷会社に所属する人だけではなく、一般家庭で主婦の方が下請けとしてやっていたりもしました。

 こういう話は「戦後宇都宮市の発展秘話」というこの企画のコンセプトに繋がりますね。印刷会社は当時宇都宮市内に200社ほどあったのですが、それに加えて下請けの方もおられましたから、実数はもっと多かったと思います。本当にたくさんの人が携わっていました。

 宇都宮だけではなく全国的にも同じでした。同業者の話を聞くと、当時は東京辺りでもガリ版の仕事はたくさんあったそうです。印刷は東京の地場産業ですから。

 背景を説明すると、戦争中の空襲で印刷所が軒並み被害を受けました。活字というのは鉛でできていますので、高温に当たるとたちまち溶けてしまい、使い物にならないのです。それで、戦後すぐの時期は活版印刷をやれる印刷所はごく限られてしまい、需要に対応しきれませんでした。そんな時に頼れるのは、ロウ原紙とやすりとローラーで印刷できる、ガリ版印刷でした。それが一時期、ガリ版の需要が高まった理由です。

——第二次世界大戦前でも、宇都宮市には活版印刷を手がける印刷会社が結構あったんですか。

井上 活版印刷はありました。戦前の、役所とか学校関係の文集とかは、活版でした。新聞も活版でした。ただ、もちろんガリ版のように手軽にはできませんでした。

 ちなみに、さらに前は石版印刷がありました。これはNHKの朝の連続ドラマでも出てきましたので、ご存じの方も多いと思います。宇都宮の企業で言えば、鈴木印刷さんが石版から始まってると伺っています。


※1 同社が「井上総合印刷所」から「井上総合印刷」に変わったのは、平成4(1992)年。


5 印刷技術の大きな変化

——戦後、昭和23(1948)年に朝鮮戦争が勃発し、そこから景気が次第に回復しました。そういう背景があって、ガリ版→活版→和文タイプ→写真植字という流れになったのでしょうか。

井上 そうですね。そういう流れだと思います。

 先ほども触れましたが、宇都宮市が空襲で焼かれる前は、活版印刷もそれなりに盛んでした。県庁からの発注も「活版印刷で」という注文が多かったのです。それが戦争で焼けてしまい、戦後にその代役として一時期もてはやされたのがガリ版だったことは、お話しした通りです。程なく朝陽堂印刷や新生社、三印刷、下野印刷といったところがかなりの設備投資をして機械を設置したため、再び活版印刷が盛んに行われるようになりました。

 ちなみに宇都宮市は戦前から大きな都市で軍都でもありましたから、印刷の需要も多く、印刷技術も蓄積されていました。戦後、景気が悪い中で、安くて手っ取り早いガリ版印刷の需要が一時的に高まりましたが、その後は活版印刷、タイプ活字と移行していきまして、そのスピードも速かった、ということです。

——戦後になった時に、人々は活字文化に飢えていましたし、しかも検閲がなくなったなどのことから、戦前よりも作品発表の自由度が高くなりました。そこで「同人誌を作りたい」とか「文集を作りたい」という人がたくさん出てきましたので、仕事もたくさんあった時代だったのでしょうか?

井上 同人誌などの仕事は、タイプ印刷になってから多くなりましたが、ガリ版の時も需要はありました。下野川柳や宇都宮川柳、俳句のグループや詩のグループ、みんなガリ版で作っていました。

——昭和41(1966)年10月に井上総合印刷所を設立した時は、業務の中心はもう和文タイプだったのですね?

井上 和文タイプですね。

——和文タイプは昭和何年頃まで使っていたのですか?

井上 もともと、和文タイプそのものにはかなり歴史があるんです。しかし宇都宮市内で本格的に需要が出たのは、昭和33(1958)年頃でした。和文タイプの学校もありましたね。それで、いつ頃まで使っていたかという話ですが、昭和50年代くらいまでは和文タイプと写植を両方使っていました。多分、ワープロが出るまでは使われていたと思います。

 さて、活版から和文タイプときて、次は写植(写真植字)の時代になります。写植が登場したことで、それまで花形だった活版印刷はオフセット印刷へとなりました。

 一方で、活版を廃れさせた写植もコンピューターが普及するとあっという間に使われなくなりました。こういう切り替わりは、本当にダイナミックです。

——すごい速さで変わっていったのですね。写植の文字盤なんか1種類1枚20万円くらいしたんですが、そういうのもDTP移行時に全部捨られたと聞いています。

井上 そうですね、うちも大量に捨てました。今考えるともったいないようですが、残しても使い道が無かったでしょう。

 写植と和文タイプの時代が大きく変わるのが、ワードプロセッサー(ワープロ)の登場です。印刷業界はそこで大きく変わりました。新たな設備投資も必要になりました。ワープロは現在はパソコンソフトが一般的ですが、当初普及したのは業務用も家庭用も専用機でした。最初に登場したのは昭和52(1977)年ですが、普及するのはもう少し後になります(※1)。

——ワープロはわれわれ素人ができる印刷機というイメージがあります。ワープロとコピーで、小さな冊子程度までなら簡単に作ることができるようになりました。印刷業界は仕事が減って大変だったのでは?

井上 過渡期は大変でしたが、われわれもワープロのおかげで今日の印刷ができてるんだなと思って、感謝してます。科学技術の発展というのは、いろんな面であまねく皆さんに幸いをもたらすんだと思いますよ。


※1 家庭用ワープロの低価格化が進んだのは、昭和60(1985)年頃から。パーソナルワープロの時代を迎え、職場でも家庭でも利用が急増し、平成にかけて大流行しました。印刷業界で本格的にDTP設備が導入されたのも、ほぼ同じ頃でした。


6 時代の波を乗り越えるために

——昭和61年に本社工場を新築されていますが、この当時の苦労話などあれば、お聞かせください。

井上 工場新築については、いろいろ大変なことがありました。特に懸案だったのが、新工場です。

 私どもは創業以来現在の場所に本社を置いていますが、あのあたりは住宅地なんです。印刷工場は大きな音も出ますし、荷運びのトラックも出入りするので、近所の方にはいろいろご迷惑をかけてしまいます。それで私も、創業のすぐ後から対策を考えていたんです。

 昭和43(1967)年頃に宇都宮工業団地(平出工業団地)ができました(1961〜66年が造成工事、1962年に分譲開始)。商売を始めて間もない頃ですが、移転先に使えるかもしれないと考えて、行ってみたんです。そうしたら「3,000〜4,000坪以上でないと、ダメ」と言われ、がっかりして帰ってきたのを覚えています。

 その後、平成8(1996)年に念願かなって平出工業団地に新工場を新築することができました。昭和61(1986)年に本社工場を新築していましたが、これは事務や編集の場所として建てていましたから、平出に工場を立てることができ、さまざまな新技術の設備を設置できて、大変助かりました。

 もともと、創業当時は家内制手工業の規模でしたし、周囲に住宅もほとんどありませんでしたから苦情も出ませんでしたが、昨今はそうもいきませんので、いろいろな対策が必要になっています。

——当時は、まさに家内制手工業の印刷所が、たくさんありましたよね。

井上 栃木県内には印刷業者はたくさんありました。県内で一番多いのはもちろん宇都宮市で、県全体を10とするとそのうち7は宇都宮の会社でした。残りの3ぐらいが地方で散らばっていました。そう考えると、宇都宮の産業集積度はすごいと思います。

——創業時は「和文タイプと印刷機だけ」とおっしゃっていましたが、そのような規模の零細企業が多かったのでしょうか。

井上 そうですね。それが戦後50年の間に、徐々に淘汰集約されていったのです。

——少し踏み込んだ質問になりますが、資金ショートなど経営上の危機はありましたか。

井上 お客様にめぐまれていましたので、経済的に困ったことはありませんでした。

 もちろん印刷代金が焦げついたりすることは、何度もありました。倒産されてまったく回収できないこともありました。だから、それが重なったりして苦しい時はありましたよ。でも印刷業者同士で話をして仕事を融通しあったり、時には「うちはもう会社を閉じるから、井上会長でお客さんを継いでくれないか」ということもありました。お客様だけでなく、従業員を引き受けたりもしましたね。

——先ほどから技術革新の話が出ていますが、新しい技術を導入する際に、どのタイミングで対応するかで悩まれましたか?

井上 実を言いますと、その決断は自分ではしていないんですよ。なんとなく自然にそうなっていったというか——お客様が望んでくれるもの、求めてるものに応えることが不可欠ですから、それに対応するためには新しい技術導入が不可欠だな、と考えて、設備投資などを行ってきました。

 だから「この年を境に大きく変わった」ということも、あまり感じません。境目とか潮目というのは、もやっとしていてよく分からない。ただ、ニーズに対応しているうちに変わって行ったというのが、実感です。

——小さい印刷会社は、他の会社から下請けとして仕事をもらったりしていたわけですか。

井上 そうです。それが生き残り戦略でもありました。

 例えば大手印刷会社が持っている、最新鋭の製本機であれば、1時間で1万冊ほど製本できるとします。ところが小さい印刷会社ではそういう機械の導入は無理ですから、手作業にならざるを得ない。それでは1時間やっても500冊程度ですから、納期に間に合わないだけでなく、コスト面で合わなくなってしまう。そういう時に何社かで分散すれば、大きい印刷会社と競合が可能になります。そういう形で力を合わせて仕事を取っていたのです。

 とはいえ小さい印刷所は設備投資が難しいですから、技術革新ができず、どこかで顧客のニーズに対応できなくなります。それで小さいところは順次淘汰され、その分の業務が残った印刷所に回り、大きくなって行ったと捉えています。


7 宇都宮テクノポリス構想の思い出

——デジタル化以前、昭和の時代に「こんな面白い仕事があった」というエピソードはありますか?

井上 趣旨は多分ズレますが「宇都宮テクノポリス構想(※1)」ではおもしろい体験をしました。

 あの時は、宇都宮市や広島市などが手を挙げて、競い合う形になりました。そのため、資料などをたくさん印刷する必要があり、その仕事が私どもで一手に引き受けました。その時は、例えば夕方に原稿が出るとすぐに版下作りに取り掛かり、時には朝までかかって作成して、始発の新幹線で東京へとどけることも、しばしばありました。私も印刷に長く携わっていますが、あれはとても楽しかったですね。注文をいただいてから速く、正確に、短い期限内に確実に仕上げてお届けできたこと、そしてお客様が大変喜んでくださったこと。特に、喜んでもらえたのは、私どものやりがいになりまして、全力でやりましたから、結果としてその時の候補都市の中では宇都宮市がいちばんになりました。

 その時は、競争相手が全国の都市だったのですが「他の都市に負けないぞ」と意気込んで、デザイン面にも力を入れました。当時は私もスタッフも若かったですから、頑張れたのだと思います。

——そういう注文に対応するのは、やる気だけでは無理ですね。印刷工程だけでなく、企画もデザインも写真も、全ての分野で優れたスタッフや外注がいなければなりませんね。そういう意味では、印刷はチーム力だと思います。

井上 そのとおりです。チームですね。ふだんからいかに内外の人材を育てているかが、こういう時に試されるのだと思います。

——それはまた、宇都宮市にさまざまな専門分野の企業や人が、いかに集積していたかということでもあります。

井上 そうですね。

※1 「テクノポリス構想」は、昭和55(1980)年に通商産業省が打ち出した地方都市構想です。先端技術産業や学術研究機関と住環境の一体化を目指しました。全国で約20都市が選定され、宇都宮市は関東地方で唯一選ばれました。地域はゆいの杜で、昭和59(1984)年から事業を行っています。


8 技術革新と経営の多角化

——昭和52(1977)年に、家庭で手軽にハガキや文書を刷ることができる「プリントゴッコ」という商品が登場し、大ブームになりました。それによって年賀状印刷の仕事が激減したと言われていますが、実際にはどうだったのでしょうか。

井上 もともと、年賀状印刷で1年食べている業者はいませんでしたから、それで倒産するようなことは無かったと思います。ただ、確かにそれまでは年賀状印刷の収入がかなり大きかったのも確かですから、困ったところも多かったと思います。

 プリントゴッコだけでなく、ワープロの登場も当初は大きなダメージでした。近年ではインターネットから注文し格安で印刷できる「プリントパック」というサービスも登場し、それも大きな影響がありました。

 そういうふうに外からダメージが与えられた時、諦めてしまう人もいますが、私は諦めず、何とか切り抜けてきました。最近は「印刷業から観光の分野にも行きたいな」と思って、大谷地区で蕎麦屋を開いたり、いろいろな事業展開をやっているところです。

——つまり、多角化ですね。最近は大手の印刷会社は紙だけ刷ってるっていう所はほぼありません。物理的な印刷物だけでなく、情報産業などさまざまな事業に進出し、生き残ろうとしていると感じます。

井上 そうですね。

——井上総合印刷の場合、社名に「総合」とあるように、常にさまざまな分野を模索しながらやってきたことが、現在につながっていると、お話を伺っていると感じます。

 創業から現在までで、客層はどんなふうに変化していますか?

井上 変化というより、私どもでは常に客層は固定はしていませんね。多分、印刷会社はみんなそうだと思うんですが、お客さん自体がどんどん変化してますから。

 いずれにしても私の場合は、どんな仕事でも速くきれいに経済的にこなす。それはどこにも負けないという自信があります。

——印刷会社の中にはある程度顧客層を固定させることで、経営を安定させるところもあったと思います。しかし井上会長は1つに絞らないことで、生き残ってこられた。それができたのは多様なニーズに対応できる最新設備を持っているからだと思います。そのおかげで、県内だけでなく関東全域や東北などの印刷会社とコラボレーションすることができたのでしょう。

 今後、電子化が進めば印刷物の需要は減ると思います。それでも、首都圏を中心に全国、の印刷会社さんの仕事を引き受けるだけの能力と設備があるっていうのが、一番の強みだ。と感じます。

井上 それは、いま始まったことではなく、創業の時からずっと同じです。発注主のニーズに応えることが、私どもの行き方でした。


9 次の時代の印刷を見すえて

——現代は「ペーパーレス」ということで、何でも電子化が唱えられる時代ですが、印刷業界では今後どのように対応していくのでしょうか。

井上 ペーパーレスにいかに対応するかは、印刷業界全体の課題です。ただ、紙がなくなることは無いと思います。

 紙というのは森林資源から作られますから、地球環境に優しくないと決めつけられる方もおられます。確かに森林資源を使いますが、実は森林はある程度間引きしつつ管理していかなければ、美しい山は保てません。ですから「環境保護のために紙の消費を抑えよう」という考え方は良いと思いますが、実際にはある程度使っていくことが、逆に環境にも良い影響を与えるのではないかと思います。

 それに、きちんと保管すれば紙は長持ちしますし、後世に資料として残すことができます。例えば昭和30年代の紙の多くはザラ紙(木綿ウエスやわらを原料に生産された半紙判の洋紙)を使っていましたが、その多くはボロボロになってしまっています。きちんと作った現在の上質紙であれば長持ちしますから、後世への遺産にもなり得ます。そういうことを考えた時に、やはり印刷するということは、後世に変わらぬ形で申し送りするための1つの方法だということを、常々考えながら仕事をしています。

——大手印刷会社は、今や印刷よりもそれ以外の事業の方が収入が大きいと聞いています。

井上 そのようですね。私も、印刷だけで食べていくのには限りがありますから、観光事業をやったりいろいろやろうと思っています。例えば、東京大学の三浦公亮先生が開発した紙の折り方「ミウラ折り」が特許をとっているのですが、それを今私どもで特許を買って、持っています。この折り方をすると、対角線上の2隅を持って引っ張るだけできれいに展開されます。この技術が注目されたのは、例えば人工衛星が太陽電池の翼を広げる際に応用できると考えられています。そのほかに、例えば開きやすい地図も、この折り方で作ることができます。

——ということは、あの折りを使うことができるのは、井上会長だけですね?

井上 そうなんです。あれは単純に縦折りの線じゃないんです。ものすごい複雑なんです。

 特許も日本だけでなく、中国やアメリカでも持ってます。

——井上会長は設備だけでなく、そういった新しい特許を獲得したりしているから、成長できるんですね。最先端の印刷技術を導入する一方で、異業種の比率もどんどん上げているわけです。文化事業や観光産業への参入もされている。

井上 文化の方は儲かりませんけれどね。

——そういう経営姿勢は創業時からあったと思うのですが。

井上 そうですね。特に、ガリ版から入ったことは、大きかったと思います。

 今までの話で出たように、印刷技術や取り巻く環境は、常に大きく変わり続けています。しかし私の中で基本はガリ版印刷なんです。ガリ版印刷は、歴史的には本当にわずかで、多分30年もったかもたないかの寿命しかないんですよ。けれども戦後、新しい時代を作る息吹は、手軽に始められるガリ版印刷によって伝えられたのだと思います。戦後の印刷の資料っていうのは、みんなガリ版印刷です。GHQに出した書類とかそういうものも、多くはガリ版です。だからガリ版——正式には孔版印刷と言いますが、そこに関われたのは幸せだったなと思っています。

——考えてみると、ガリ版は自分で原稿を書いて、時にはイラストも書いたり割り付けしたりして、さらに印刷も自分で1枚1枚刷っていくのですから、原始的ではありますが、一方で総合的なメディアでもありました。そういう役割は、現在の印刷会社も持っていると思います。さまざまなメディアのまとめ役が、印刷なのだと感じました。本日はありがとうございました。




【写真アルバム】

上段左:オフセット印刷

上段中:昭和30年代活版印刷機

上段右:平出工場

下段左:活版印刷機

閲覧数:36回0件のコメント

最新記事

すべて表示

第6回 宇都宮にあった文化の灯「仮面館」

元参議院議員 谷 博之氏インタビュー 栃木県を代表する国会議員の1人として長く活動し、現在もさまざまな社会活動に関わっている、谷博之さん(80歳)。若き日の谷さんが情熱を注いだもののひとつに、栃木県初のライブハウスと言われる「仮面館」があります。宇都宮に新しい文化をもたらした同店の歴史と意義について、お話しいただきました。 1 アートスペース「仮面館」の生まれた日 谷 仮面館がオープンしたのは19

bottom of page