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第7回 昭和20〜30年代、変わりゆく国鉄宇都宮駅周辺(その2)

前回に続き、薄井光明さんのインタビュー後編をお送りします。


大学卒業後、家業の魚屋を継ぐ


 私が中学校の頃は、魚市場が今の上河原通りの東側、現在の大同生命のあたりにありました。その後で、私が大学生の頃、今の南大門のとこに市場が移転されました。

 昭和35年に、東京の大学へ進学しました。大学へは実家から通っていました。自宅の目の前に駅がありましたから、発車のベルが鳴ってから飛び出しても、間に合ったんですよ。今では考えられませんが。

 昭和39年に卒業した時には、東京で就職しようと思っていました。ところが父に「ここ(実家の場所)は、数年後には再開発事業が始まる予定だ、だから今のうちに長男のお前が家業を継げ」と言われてしまいました。それで魚屋を継いで、7年ぐらいやっていました。

 実際、昭和40年代前半には日本全体の高度経済成長が著しく、宇都宮市でも都市化が進展しました。特に自動車交通が増加しましたから、それに対応するために駅前の交通インフラの改善が求められるようになりました。私の家のあたりもその一環として再開発が検討されていたのです。ただし、この時は、結局は具体的な整備は実施されませんでした。

 魚屋の客先は、主に弁当屋さんでした。宇都宮駅は駅弁発祥の地と言われています。最初に始めたのが駅前の旅館の白木屋さんで、明治18年と聞いています。また、洋風の白木屋ホテルも経営していました。戦後は松廼家さん、富貴堂さんなどが駅弁を製造販売していました。私のところが納入していたのは松廼家さんで、駅弁用に魚を小さく切って、卸していました。

 魚は冷凍で輸送されて来ますから、カチカチに固くなっています。それを半生に溶かして、切って納めます。夕方になると、弁当屋さんから「明日何個分持って来て」と予約が入ります。それは、翌朝6時に納めなくちゃいけないのです。だから、店を閉めた後、夜中に作業をして、朝納めていました。量は時期によってまちまちですが、ゴールデンウィークなどには2,000枚とか3,000枚とかの量の注文を受け、こちらは徹夜で作業していました。


年末年始商戦の凄まじさ


 今ではすっかり廃れてしまいましたが、昔は年末年始のお遣い物といえば、新巻鮭(あらまきさけ、鮭の内臓を取り除いて塩漬けにし、干したもの)が代表でした。帰省する人たちが、手に、手に新巻鮭を持っているのが、暮れの代表的な風景でした。

 手ぶらで帰って来て、宇都宮駅で降りてから買い求める人もたくさんいました。そういう方を対象に、うちでも店先にずらりと新巻鮭を並べていました。

 私が高校生の頃は、父と2人で築地に行って、仕入れて来ました。こんな分厚い木の立派な箱に、7尾とか8尾とか新巻鮭が入っていて、隙間にぎっしり塩が詰まっていました。貯蔵や保存のための塩です。当時は家庭に冷蔵庫など滅多にありませんでしたからね。腹の中からこういう顎の中から、もう全部塩がぎっしり詰まっているわけです。

 そういう木箱を、大体120〜130箱だったかな、買い入れて来て、半分は家に届けてもらい、残り半分は冷蔵できる倉庫業者に預かっていてもらいました。

 この新巻鮭の目方を量って値段を付け、口からエラに荒縄を通し、ずらっと店先に吊るしておくのですが、列車が駅に到着して降りて来た乗客たちが、どんどん買っていってくれました。列車が着くたびに2、30本は売れました。

 だからもう、年末商戦は、すごいにぎわいだった。菓子店も経営していましたからクリスマスまではケーキが飛ぶように売れて、そのあとは新巻鮭がどんどん売れていましたから、10日、2週間ぐらいは戦争のようでした。大晦日などは、夜中の3時まで店を開けていたましたから。そのあとは家族で二荒山神社にお参りするのが通例でした。

 さすがに元日は休みましたが、2日からまた営業。今度はお年始用で、また新巻鮭が飛ぶように売れました。おかげで手は、鮭の歯が当たってあちこちささくれになり、塩がそこに擦り込まれて、痛いのなんのって……でも泣き言をいう暇もないくらい、忙しかったのです。

 こういう年末年始は、昭和44〜45年まで続いていたと思います。


発展する宇都宮市と変化の波の思い出


 昭和33年に、宇都宮駅は4代目の駅舎が落成しました。その2階にデパートができています。だからその頃になると、都市の整備もかなり進んでいたのだと思います。また昭和41年には、当時宇都宮駅の近くにあった日清製粉の工場から、小麦粉の輸送が開始されています。これも、道路拡張や駅の整備が終わっていたからできたのだと思います。そう考えると、昭和30年代は、それまでの雑多な賑わいだった宇都宮駅西口周辺が整理されていった時期だったと思います。

 前に、当時のことを誰かが話している記事を読んだことがあります。そこに「馬場町はもう夕方5時でみんな商店が閉まっていて」云々とありました。しかしこの辺は、その当時は朝晩すごかったですから、人が。夜は9時頃まで、みんな店を開けていました。他に屋台も駅前にあって、こちらは夜通し営業でした。だから同じ宇都宮市でも、全然違うのですよ。

 その頃は、まだ馬車も走っていましたね。それが信号で止まると、そこで糞をしたりしました。

 それから、当時はまだ駅前の交差点に信号がありませんでした。だからお巡りさんが台の上に立って、手旗信号で交通を整理していました。信号機がついたのは、確か昭和25年頃だったと思います。私自身は、はっきり覚えていませんが、お巡りさんが一生懸命手旗信号をやっている姿は、はっきり覚えています。男性だけでなく、女性のお巡りさんもいましたね。

 駅前の交差点は、いろいろ事件が起こりました。バキュームカーが横転してホースが外れ、中のものが道路に撒かれたこともありました。あそこは南側に少し傾斜している土地なので、流れ出たものは全部こちらに来てしまい、困りました。


薄井ビルの建設と、生保会社への就職


 大学を22歳で卒業してから、29歳までの7年間、魚屋をやっていましたが、そのうちに板前が体を壊してしまったこともあり、再開発の事情もあって、店を閉じました。その後、昭和45〜46年に、父がこの薄井ビル(宇都宮市駅前通り3丁目1-2)を建てました。

 その間に、宇都宮駅西口の再開発はいくつも案が出ていたのですが、全部頓挫してしまっていました。当時は父が再開発組合の理事長を務めていました。8割くらいは同意がとれたそうですが、一部の地権者がどうしても首を縦に振ってくれなかったそうです。

 結局まとまらなかったので、それなら自力でと考えた父が建てたのが、このビル(薄井ビル)です。一時は東京の百貨店が出るような話があったんですよ。長崎屋が出るとか、三越が出るとか、他も何かいろいろ噂はありましたが、結局どれも具体的にはなりませんでした。

 ビルが落成した当時、私は29歳でした。これからどうしようと考え、一時はビルの地下で割烹をやろうかとも思ったのですが、相談した人たちが口を揃えて「腕の良い板前がいないと無理」と言うので、断念しました。

 それで、今後何をやるにせよ、営業力をつけることが不可欠と考えたので、生命保険会社に就職しました。

 一生懸命働いて、営業成績も良かったのですが、そのうち労働組合から声をかけられて、半ば専従職員のようになり、このあたりの支部長をやったり、さらに上の関東地区の委員長を務めたりして、60歳定年で退職しました。結局、営業力より組織力の方がつきましたね。それが退職後に、再開発事業と関わった時に生きたと思っています。



退職とその後の再開発事業への関わり


 平成14年に退職して、一年程ぶらぶらした後、このビルの管理を始めました。父は昭和60年に亡くなり、その後は母を社長にして、実務を妹がやっていました。その妹に頼まれて、私が引き継ぎました。

 当時、町会のメンバーはほとんどが亡父と同世代で、80から90代の人ばかりでした。私は、2年くらいは大人しく町会に出席していましたが、多分3年目ぐらいだったと思いますが、何か質問ありませんかっていう時に手を挙げまして、「誠に申し訳ないんですけども、30年間ここの地域を空けたのですけども、ここへ帰ってきて2年間出させていただいて、皆さんも昔話ばっかりで、なんか昔と全然変わってないので、タイムスリップしたみたいな感じです」って言ったのです。「できるのであれば、私も長男であり、もう60代、62〜63になりますのでので、皆さんのお子さんたちも私と同年代の方もおられる方もいるのではないですか。だから、これからのここ駅前を考えるに当たっては、昔のいろんな出来事ばっかり話してないで、やっぱりこう前を向いて未来志向でいくのには、若い世代にバトンタッチしてはどうですか」っていう話をしたのです。

 そうしたら、その次の年の会では年配メンバーの大体3割か4割が、出てこなかったのです。その代わり、今度は新しい人が何人か出ていきました。

 当時のまとめ役の方に「町おこしのためには、若い個性で、強制じゃなくて任意参加で、勉強会を開催してはどうか」と相談したところ、賛同していただけたので、さっそく若い方に声をかけて勉強会を開きました。それが平成20年でした。

 宇都宮駅西口の再開発事業はAからFまでの街区に分かれて計画が立てられています。地域全体で、地権者は全部で68もいるものですから、なかなかまとまりませんでした。それぞれがさまざまな事情を抱えていましたからね。

 一番のネックは、自分で商売をやっている人が約3割しかいなくなってしまったということ。以前はほとんどの地権者が実際に商売をやっていました。それが、私もそうですが、テナントとして貸すようになってしまいました。そうなってしまうと、意思統一はさらに難しくなってしまいます。

 そのうち、ある街区がしびれを切らして独自に再開発を始めました。困ったなとは思いましたが、それがきっかけで他の街区の再開発も動き出したので、結果としてはプラスだったと思います。

 ロビンソン百貨店(現トナリエ)の誘致など、駅周辺の他の地域で再開発事業が進んでいたことも、刺激になったと思います。

 それで、私どもB街区でも、もう一度関係地権者の意思を確認するために「本当にやるのか、やらないのかを今のうちにハッキリさせましょう」と話し合いました。そして商店会の市村(耕三)会長を中心に、再開発を推進しようと決め、会員の皆さんの意思確認をしていきました。中には「今までやってきたが、再開発など無理だと思う」という人もいました。そういう人たちに根気よく「今が最後のチャンスですよ」と説明して、約1年かけてまとめていきました。

 都市計画の認可が令和6年7月に下りまして、今のところ順調に進んでいます。予定からいくと、再来年の4月に明け渡して、今ある建物の解体工事が始まることになります。それから約1年間かけて解体し、新たな建物を建築して、2030年の8月17日にオープンする計画ですよ。

 順調といっても、古い建物が多いのでアスベストやPCBの処理も必要ですし、さまざまな課題が出てくると思います。LRTの西側延伸が決定して駅前の整備計画が宇都宮市から発表されていますから、これも今後どうするかを考えなくてはなりません。

 それでもせっかく走り出した再開発事業ですし、なんとしても成功させたいと考えて、皆で力を合わせてがんばっているところです。

 
 
 

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