元二荒山神社氏子青年会会長、元馬場町青年会会長
大野幹夫氏
坂本 大野幹夫さんは、戦前から戦後の高度成長期の前あたりの時期、当事者としてバンバ商店街をご覧になってこられた方です。本日はさまざまなお話を伺えると楽しみにしております。
■戦前の思い出
1 師団の出征
私は1932(昭和7)年の2月の生まれで、今年(2020年)で88歳になります。
私の実家は戦前から戦後にかけて洋菓子店を営んできました。創業は祖父で、1908(明治41)年で「大野富貴堂」という名前で大工町に開店しました。その後、店を弟の吉次郎にゆずり、森永製菓と共同で「森永製菓関東販売株式会社」という、森永製品の販売会社を新宿町に設立しました。また馬場町に1927(昭和2)年「森永共栄キャンデーストア」を開き、その経営を父に任せました。戦後は森永との関係が切れて「大野屋」という屋号になりました。店を閉じたのは1972(昭和47)年でした。
1937(昭和12)年に満州事変が勃発し、日本は中国との戦争に突入していきます。終戦が1945(昭和20)年で、その時私は13歳。早生まれでしたから中学2年生でした。つまり、少年時代はずっと戦争でした。そういう時代ですから、私は軍国少年として育ちました。いちばん古いバンバの思い出というと、やっぱり軍隊との関係ということになります。
私が物心ついた5歳の時(1937(昭和12)年)に日中戦争が始まり、宇都宮市に駐留していた陸軍第14師団が出征します。確か夏の、7月か8月だったと思います。その後、出征した第14師団の後に第114師団が設立され、宇都宮に師団本部を置きます。ただこちらも同じ年の11月に中国戦線に投入されます。その出征も見送りましたから、当時宇都宮に住んでいた私たちは合計3万人くらい、見送ったことになります。
出征の際には軍隊が隊列を組んで行進し、宇都宮二荒山神社に近くなると隊列を整えて、神社の前で捧げ筒をします。私の父が経営していた洋菓子店は、バンバの二荒山神社の鳥居の近くにありましたので、私もその光景をしっかり見ていました。
沿道で市民が部隊を見送るのですが、その熱狂ぶりは大変なものでした。宇都宮市民だけではなく、日本全国が熱狂していた時代だったのです。もちろん私も熱狂していました。軍隊の出征は、本当に心躍る光景でした。
その時、こんな出来事がありました。二荒山神社にさしかかる直前、1人の女性が飛び出して、最後尾にいた兵隊さんに抱きついたのです。若い顔の兵士でしたから、女性はおそらくお母さんだったのでしょう。もちろんすぐに、分隊長に突き飛ばされ、引き離されました。兵士は上を向いて行進を続けていきました。涙がこぼれないように、そうしていたのでしょう。抱きついた女性と、引き離されて行進を続ける兵士の姿は、今でも忘れられません。
「戦争というのは、悲しいものなのだ」そう、子供心に感じたことが、私の現在の平和活動につながる原点になっています。
2 当時の宇都宮の姿
私のうちは戦前から洋菓子屋をやっていました。洋菓子とパン、それからレストラン。それは当時の宇都宮の職種としては、そう多くなかったですね。
うちには、将校さんがよく集いました。戦前は、将校はどの店、下士官はどの店、兵卒はどの店と、階級によってそれぞれ分かれていました。
軍隊は階級社会ですから、上の位のものが来れば起立して敬礼しなければなりません。でもそれは煩わしいし、食べた気がしないですね。なので、自然と階級ごとに分かれるようになったのです。
仲見世が発達したのも、それが理由でした。兵隊さんとその家族が、あそこでおでんなどを食べたりしていたんです。
師団があると、兵隊さんの家族が面会に来ます。第14師団には2万人以上所属していましたから、日曜日ともなると街は人でにぎわいました。
その人たちのルートっていうのは、だいたい決まっているんです。まず二荒山神社に参拝。お花見の時期は、そこから八幡山に行ったそうです。そして戻って来て、上野百貨店(注:上野百貨店は木造コンクリート3階建て、元は上野呉服店馬場町支店だったが、1929(昭和4)年に北関東初の百貨店としてスタートした)で買い物をし、映画を見て帰るんです。みやの土産は宮の餅と決まっていたみたいです。
当時から戦後まで、二荒山神社の周辺には映画館や劇場が集まっていました。動物園があったほどです。それらのほとんどは、斎藤興行(注:現在は斎藤商事として菓子店「マスキン」経営や不動産管理などを行っている)の経営でした。
仲見世が発展したのも、兵隊さんやのその面会客のおかげが大きかったと思います。
全体に、宇都宮の繁栄は軍都であったことが大きく影響していると思います。もちろん江戸時代から城下町であり門前町であると同時に、交通の要の宿場町でもありましたから、経済力はありましたし、軍都になれたのも宇都宮という都市に力があったからだと思います。そして軍都になると、さまざまな産業の発展につながりました。
仲見世と言えば、あれは真ん中は国有で西が市の所有の土地なんですが、東側は神社の土地でした。そうすると、西と真ん中は公の管理なのでダメですが、東側は香具師が仕切っていたと思います。
戦前は、宇都宮に和菓子店はたくさんありました。私の家のような洋菓子店は、そう多くなかったかな。うちが森永の名前でやっていて、隣は明治菓子店(名称は明治喫茶だったかもしれません)。坂本さんの実家の坂本パン店も、バンバにありました。それにマスキンさんあたりが、中心部では大きいところだったと思います。
それから料亭や旅館、茶屋などはたくさんありました。芸者も多く、花柳界が発展していました。
当時、オリオン通りはまだ繁栄してはいませんでした。私の記憶では和風の店が多かったかな。だから通りを歩くと、琴や三味線の音が聞こえてきたものです。
東武宇都宮駅はありました(開業は1931(昭和6)年)が、あそこに百貨店ができたのは戦後のこと(1959(昭和34)年)です。駅の周辺には東宝の映画館などもありました。東武駅ができるまであの界隈は刑務所だったんですよ。有形文化財指定の松が峰教会が創設されたのも1932(昭和7)年のことです。私と同じ年なんです。
当時は東京に出るときには東武鉄道を利用する方が多かったと思います。当時は上野より浅草の方が栄えていました。私も子供のころからよく浅草まで連れて行ってもらいました。浅草から銀座に抜けて、日本橋の三越に寄って帰ってくるのが、決まったルートでした。帰りは東北本線で戻ることもありました。
3 父方、母方の祖父母のことなど
私の祖父は浅草の生まれで、銀座の木村屋(あんぱんを発明した、日本のパン屋の老舗です)とつながりがありました。
昔はお金を貸し借りすると、そのかたとして、養子を交換したりしたんです。よく戦国の武将が自分の子供とか出すでしょう。それと同じように、お互いに出すんですよね。そういう次第で、祖父は木村屋に養子に入っていました。
ところが、その祖父が芸者と駆け落ちしてしまったんです(笑)。その芸者の実家が宇都宮の近在だったので、宇都宮に落ち着き、パンを作り始めたということです。
それで祖父は、森永食品関東販売株式会社を作り、森永の製品を主に関東地方全般で販売し始めました。その後、誰かから助言を受けて、バンバに「森永共栄キャンデーストア」という森永製品の店を出しました。その店を、1927(昭和2)年に父に譲ったのです。
また、母方の祖父は、横浜で洋服屋をやっていたそうです。一念発起してアメリカへ渡り、修業をしようと考えました。昔の人は行動力がありましたから、決めると早速船の手配をし、嫁を連れて出発したところ、その嫁——つまり祖母ですね——ホームシックにかかり、とうとう2人ともハワイで降りてしまいました。
その後、娘(母です)を出産した後に日本に戻ってきて、今度は宇都宮に来て、千住町に「遠州屋」という名前の洋品店を開きました。宇都宮で初の洋服屋でしたから、お客様も多かったそうです。船田小常さん(※)もお客様の1人で、写真も残っています。今見ても綺麗な方だったなと思います。
少し脱線しますが、父方の祖父が店のウインドウに、座布団にあんぱんを乗せて飾っておいたそうです。そうしたら「珍しい」ということで、近在近郷から馬車を連ねて大勢の人が見に来たそうです。それを聞いた母方の祖父は「うちはウインドウにドレスを飾っておいたんだ」と言うんです。「そうしたら近在近郷から馬車を連ねてみんなが見に来た」って話をするわけです。本当かな、ほらじゃないのかなと私は思うんですけれども(笑)、なんだか大正時代の空気を感じるような話だと思って、好きなんですよ。
母方の祖母は、ハワイで暮らしていたはずですが、英語はまるで喋れませんでした。ところが不思議なことに、私が学校で習って来た英語を喋ると「発音が違う」と言われました(笑)。ワイキキも「ワイキキ」とは発音しないんです。必ず訂正されました。あれは英語かなあ、ハワイ語だったんじゃないですかね(笑)。
母はパーマをかけに東京までいっていました。というのは、当時はまだ宇都宮に美容室がなかったからです。ちなみに、ハイヒールも宇都宮で初めて履いたと聞いています。
母はふだんは洋装でしたが、なぜか残っている写真はほとんどが和服です。残念なのですが。
※船田小常 1903(明治36)~1973(昭和48)宇都宮市塙田町生まれ 作新学院の創設者、船田兵吾とキミ夫妻の長女。私学教育の振興、作新館高等女学校創設。夫は「文芸春秋」初代編集局長で作新学院図書館長となる斎藤龍太郎。同誌をめぐる文土の間で「美貌の才媛」として人気が高かった。
略歴やエピソードはこちらを参照 http://www8.plala.or.jp/kawakiyo/kiyo49_03.html
4 徐々に戦時体制に
将校さんというのはエリートですよね。出身は様々ですが東京で士官学校を卒業しているから、いろんな文化に触れています。音楽でいえば、歌謡曲や民謡だけでなく、ジャズやクラシック、シャンソンなども知っていました。ですからうちの店でも、それに合わせてジャズとかクラシックとかシャンソンとか、そういうレコードをたくさん集めていました。
戦争が進むにつれて、そういった外国の音楽が禁止されていったのは、皆さんご存じだと思います。特に太平洋戦争がはじまると、敵国の音楽であるジャズやシャンソンなど、次々に禁止されていきます。クラシックも、ドイツやオーストリアの音楽は良かったんですが、フランスやイギリス、アメリカの作曲家のものは禁止されました。
おもしろいことに、タンゴはしばらく許可されていました。タンゴはアルゼンチンの音楽で、アルゼンチンと日本はまだ戦争していませんでしたから。でもその後「軟弱な音楽」として、やっぱり禁止されてしまいましたね。
レコードも自主供出させられました。レコードには現在では塩化ビニールが使われますが、当時のレコードは材質がカーボンや酸化アルミニウム、硫酸バリウムなどの粉末をシェラック(カイガラムシの分泌する天然樹脂)で固めた混合物で、通称「シェラック盤」と呼ばれました。これは溶かして再利用ができるのです。ですからそれを使って、戦地に送るレコードを作るのです。
私も小学校5年の時、戦地に送るレコードを吹き込んだことがあるんですよ(笑)。合唱して。あれも、材料は自分のうちのレコードだったのかもしれませんね(笑)。
そんなことがありましたね。音楽もだんだんなくなっていく。歌謡曲も「軟弱だ」ということでなくなっていく。あとは軍歌一本になりました。
5 越境入学で昭和小へ進学
うちの店は、戦前から水洗トイレをつけていました。子供ですから、それが当たり前だと思っていましたね。
水洗と言っても今のものとは違います。ものすごく深い水槽を掘って、そこに水を貯めて、それをくみ上げて流すんです。浄化槽はありませんから、流されたものはそのまま下水道や川などに流される仕組みです。それに、停電になったら使えません。だから水洗トイレも良し悪しという気がしました。
小学校(国民学校)は、本来ならば中央小だったのですが、越境入学で昭和小に通っていました(当時は現在の栃木県総合文化センターの場所にありました)。理由はよくわかりませんが、おそらく大通りを横断させたくなかったのだと思います。今と比べれば道幅も狭いし、交通量も少ないのですが、当時でもメイン通りですから、そこを渡らせるのは危険だということだったんじゃないでしょうか。
越境入学したことで、小学校には知った子供がいませんから、ずいぶんいじめられました。なので、しばらくは非常におとなしくしていました(笑)。家に帰っても周りの子供はみんな中央小でしたね。
昭和小と中央小で、よくケンカもしました。いま松村整形外科があるあたりは、当時は空き地でした。あそこは大通りから坂になって高くなっています。その高いところに昭和小の子供たちは陣取って、下に集まっている中央小の子供たちと、石を投げあったりしました。
6 宇都宮空襲の中で
戦争が激しくなるにつれて経済の統制も厳しくなり、商売を続けたくとも物資が不足するため、市内の商店は次々に閉店していきました。
うちは幸い、軍への納入があることで、原料もまずまず入ってきました。軍以外には学校にも納入がありました。祝日や学校行事の際に、子供たちに配る乾パンとか菓子パンなどを納品していました。だから、うちだけでなく菓子店の中には、戦争終結直前まで店を開いていたところがありました。
戦前の宇都宮について触れる時、1945(昭和20)年7月12日深夜の宇都宮大空襲のことを外すわけにはいきませんね。B29爆撃機115機(注:米軍資料による)が6・7機の編隊を組んで次々と宇都宮のまちに波状攻撃を加えたのです。12日23時半ごろから13日1時半ごろにかけてです。
8万発に近い焼夷弾を投下したんですから、たまったものじゃなかったのでして、町の7割近くが炎上しました。(‘宇都宮空襲についてはWEBページ「とちぎ炎の記憶-tsennsai.jimdo.com/―」の中の宇都宮市空襲の項参照のこと)
よく「敵爆撃機が上空を旋回中」と言いますが、実際には旋回できないんですよ。巨体でしょう。全長30メートル、翼長43メートル。それが100キロ以上のスピードで飛んでいますから、宇都宮みたいな狭い地域の上空では旋回できません。それで、編隊ごとに爆弾を落としたら行ってしまう、波状攻撃をしたんです。
そのために、同じ宇都宮でも地区によって爆撃された時刻に差が生まれました。私たちがいた馬場町は意外に遅く爆撃を受けたので、住民は逃げる暇があったんです。
のちに調べたところでは、本来は中央小学校が空襲の中心目標だったのが、当時の気象状況で500メートルくらい東南にずれたようです。
そのおかげで、私は逃げる余裕が十分にありました。それで母と、兄と、三人で。もう一人の兄は大学に行っていたので、いなかったんです。おやじは警防団長(※)だったんですよ。東区第6分隊。それで空襲が始まってすぐに駆けつけてしまったので、いなかったんです。
逃げていく時、星が丘の石畳を通りました。自分が昭和小学校だから、本能的に通学路をたどったのだと思います。私の家は一番最後の頃に逃げたから、誰も行き会う人がいないんです。一緒に逃げている人はいたけれど、周りの家々には誰もいない。本当に空虚なところを逃げていったわけです。ところがあそこの坂だけは、50人くらい人がいたんです。婦女子が道路に伏せて、耳と目を押さえていました。そこに警防団の人が1人、仁王立ちになっていました。私らが通った時「お前ら、なんで逃げるんだ!」と彼に怒られました。
「逃げるな」というのは、当時は防空法で、逃げちゃいけないことになっていたんです。幼児と年寄、妊産婦、病人以外は、逃げずに消火に当たれという法律です。
その時は母が「私が足が悪いので、子供たちがかばってくれて」と弁解して、やっと許されて逃げました。
後で考えると、他は人に全然出会わないのにあそこだけ人がいたというのは、皆さんあそこに強制的に集められていたんじゃないでしょうか。「逃げるな!」と言われて。
空襲が終わり、家に帰る時、清住通りを通ってきたのですが、あのあたりは空襲を免れていたので、街並みが普通に続いていました。だから「なーんだ」と思っていたんです。
ところが大通りに出たら、何もない。全て焼かれてしまっていたので、本当にびっくりしました。
で、うちに帰ったら「お父さん亡くなりました」と、警防団の人が来て言ったんです。
その時の話をよく学校でするんですが、ひとつも悲しくなかったんです。うちの親父は名誉の死を遂げたと、逆にうれしかったんですよ。ところがその後すぐ、にこにこしながら帰ってきたので、内心がっかりしていました。そのくらい、軍国少年だったわけです。
親父が消防のために消防車を出して途中まで来た時に、周りの状況を見ようと車から下りるんです。そうしたらその時に消防車が直撃を食らったのです。それで運転手が亡くなってしまったのですが、彼を救護所に運んだ時に取り違えが起きたのでした。
後に、私が学校で戦争体験を話すようになってから、先生方に「これが本当の話なんで、生徒たちに話していいですか」と言ったことがあります。「ぜひ話してみてくれ」ということになり、生徒の皆さんの前でその話をしたんです。そうしたらね、子供たち、わかったんです。「戦争というのは、家を焼いたり物を壊したりするだけでなく、人の心まで傷つけるんですね」という言葉が返ってきたんです。ああ、わかったんだなと。大人は分からないけれど、子供は分かったんだなと。大変嬉しかったのを今も覚えています。
うちの店は馬場町にありました。自宅は新宿町、工場は川向でした。それが全部、焼けてしまいました。残ったのは馬場町にあった大谷石の倉庫だけでした。それでも住むところが残っただけでありがたいことでした。周りは倉庫さえも焼けてしまったところがほとんどでしたから。
※警防団は第二次世界大戦勃発直前の1937(昭和12)年に、空襲や災害から市民を守るために作られた団体。警察や消防の補助組織であり、水火消防や防空監視、灯火管制、警戒、警護などさまざまな役割を担った。(wikipedia参照)
■戦後の思い出
1 雑誌を販売して商売再開
終戦になりましたが、すぐに商売再開とはいきませんでした。
戦争末期には、私のところは軍に接収され、連絡事務所のようなものになっていました。うちだけではなく、中心部のお店の多くは同じような状況でした。
大抵の店は、終戦後すぐに再開できたところが多かったのですが、うちは1年くらいかかりました。軍隊に協力したかどで、商売をやらせてもらえなかったんです。それで、ちょっと遅れをとりました。
再開はしたものの、最初の頃は戦前にやっていた家業の菓子屋ではなく、進駐軍向けのお土産の店でした。それが売れなかったので、『ライフ』や『タイム』『リーダーズ ダイジェスト』といったアメリカの雑誌の販売を始めました。北日本総代理店で東京以北青森までが販売領域でした。もちろん英語の雑誌なのですが、それが飛ぶように売れたんですよ。みんな活字に飢えていたんですね。
実は私の母はハワイ出身なんです。それで、ツテを頼って進駐軍に取り入って、販売の権利を得たということです。
英語の雑誌なんか売れるのか、と思うでしょう。ところが列を作って買っていくんです。本だったらなんでも売れた時代でした。それで、やっと食いつなぐことができました。
『リーダーズ ダイジェスト』はその後すぐ、1946(昭和21)年6月に日本語版も登場し、これもまた飛ぶように売れました。
4、5年たってからですね、お菓子を作り始めたのは。
先ほど、大谷石の倉が一つだけ焼け残ったと言いましたが、もう一つ、借りていた倉がありまして、それも焼け残りました。それらの倉に、大量の砂糖とビールが保管されていたのです。理由は分かりません。父に先見の明があったのかも知れません。いずれにせよそれらのおかげで、1年食いつなぐことができました。
洋菓子屋を再開した時には、森永との関係は終わって「森永共栄」の名前が使えなくなり、どうしようかということで「大野屋」になりました。
お菓子を始めたと言っても、問屋と関係ができていますから、それまで扱っていた雑誌の販売を急にやめることはできません。それで洋菓子屋と書店の両方をやっていました。どちらかというと雑誌の売り上げの方が多かったですね。
2 「ギブミー チョコレート」「10円」
戦争が終わって、10月には進駐軍が入って来ました(※)。
4,500人のアメリカ兵が、進駐軍専用の列車で宇都宮まで来て、降りて宿舎まで歩いて行きました。それを、私たちは見ていました。こちらは物珍しさが先に立っているんですが、兵士たちは明らかに緊張していました。だって、つい数ヶ月前まで戦争していた相手です。降伏したといっても何が起こるか分からないですから、敵前上陸をした気持ちだったのでしょう。銃をしっかり構えて、目をぎらつかせて、視線をあちこちに配っていました。怖かったのでしょう。
ところがそんなに怯えていた兵士たちなのに、3日もすると街に遊びに出ているんです。
そういう兵士を子供達が囲んで「ギブミー チョコレート」と言うと、チョコやチューインガムを嬉しそうに配ってくれました。
どころがさらに1週間もすると、もう配らない。「10円」と言って手を差し出すんですよ。ただではくれなくなっちゃったんです。思うに、進駐軍の兵士が日本語で一番最初に覚えた言葉が「10円」じゃないかと思いますね(笑)。
本当に10円とっていたかは定かではありません。10円というのは、当時としてはちょっと金額が大きすぎます。新円発行はまだ先ですから。ただ、対価は払っていた記憶があります。
※1945(昭和20)年10月、サンドウ大佐指揮下の米軍第17師団第158連隊約4,500名が宇都宮に進駐。(『宇都宮市史』第7巻)
3 戦後の宇都宮、バンバの繁栄
戦後の宇都宮は復興が早かったですよ。びっくりするほどです。
1945(昭和20)年に終戦となり、その時はまだ宇都宮空襲などの被害で街並みも惨憺たるものでした。それが1年ほどの間に、どんどん復興が進みました。
当時の宇都宮の復興力は、日本で最高だったと私は思っています。
ちょっと話がずれますが、私は戦災孤児についての研究もしておりまして、その記録の一つに宇都宮のことが出てきます。東京の浮浪児が、宇都宮に出稼ぎに来ているんですよ。香具師の手配で宇都宮に来て、そういう人たちの手下になって物販などしていたのです。東京から来るんだから、相当繁栄していたのだと思います。
家並み、街並みもどんどん復興していました。政府は終戦直後から組み立て式の復興住宅を建てる政策を進めていましたが、私は宇都宮ではそういう家は見た記憶がありません。立派な木造住宅――といってももちろん物資もありませんから安普請ですが、バラックやプレハブではないきちんとした住宅が、どんどん建っていきました。
材木屋が製材をするところを、進駐軍の兵隊さんがよく写真にとっていました。珍しかったのだと思います。
バンバ仲見世通りには松竹、電気館、花やしき、寿座、歌舞伎座などが集中していて、二荒山神社東側に宮桝座などの芝居専門の劇場もありました。そこで歌舞伎なども上演していました。祖母に連れられてよく芝居や寄席を観にいったものでした。
戦後は電気館、花やしき、歌舞伎座、松竹映画劇場などが次々と再建されました。最初は松竹でしたね、まだ露店で、雨が降ってくるとびしょびしょになってしまうのですが、それでも夢中で観ていましたよ。歌舞伎座も野外劇場でしたよ。そのほかに、メトロ座、セントラル劇場、第一東宝、民衆映画劇場(民映)、富士館などがバンバを中心に軒を連ねました。宮桝座も戦後は洋画専門上映の映画館として復活しました。花やしきは芝居と映画の2本立て、第一東宝は歌謡ショーなどもやっていましたね。メトロ座は馬場町の二荒山神社の近くです。セントラルは鉄砲町の元の福田屋百貨店のところ、民映はいまの東武ホテルあたりにありました。娯楽の少ない時代で映画は娯楽のジャンルの基幹産業でしたから、ものすごい人気だったんですよ。
宇都宮がそんなに発展した理由は、正直言ってよくわかりません。戦後数年、私がまだ高校生だった頃に、観光バスが来ていたのは覚えていますから、町全体が他の都市と比較して復興が早かったのだと思います。終戦翌年には、早くも「復興祭」が行われています。
1950(昭和25)年から、大通りの拡幅工事が行われました。その時、北側はそのままで、南側に広げられました。北側にはすでに第一銀行や上野百貨店などのビルがいくつもあったから、商店が並んでいて動かしやすい南側を広げたのだと思います。上野百貨店は宇都宮空襲で焼けましたが、9月には再建されていました。相生町の共同ビルができたのもその頃でした。あれは防火対策として建てられたんです。宇都宮は火事が多かったので、延焼を食い止める防火壁の役割も兼ねていました。共同ビルとして商店街が再生したのは全国的にもかなり早い時期でしたから、視察もたくさん来ました。共同ビルはその後馬場町(1955(昭和30)年)、千住町大町(1957~58(昭和32~33)年)が作られましたが、いずれも防火帯の役割を担っていました。
防火で思い出しましたが、宇都宮の歴史を調べていると火事が多いでしょう。明治以降の年表を見ると、ひんぱんに大火が起きています。
実は、うちの店も一度、火元になっているんです。1914(大正3)年3月に千住町大火といって千住町から新宿町まで焼いた火事がありました。その火元は、当時「大野富貴堂」という名称だった私の実家でした。この火事によって、宇都宮の中心街が千住町から馬場町に移ったんです。
ちなみに宇都宮には「富貴堂」というお店が明治時代からあります。福田さんという方の経営で、確か初代の福田富次郎さんは木村屋さんで働いていて、その後宇都宮で初めてのパン屋を開店しました。うちとの関係はよくわかりませんが、うちの父方の祖父も木村屋で修業しましたから、何かつながりがあったのでしょうか。
4 2つのデパートとオリオン通り
オリオン通りが発展したのは、東武百貨店ができてからです(1959(昭和34)年)。上野百貨店と東武宇都宮百貨店の間を人が行き来するようになり、オリオン通りはその経路でした。
また、戦後に作新学院や宇都宮学園などの私学が、戦前の軍用地跡に作られていきました。それらの学校に通う学生たちの通学路にもなりましたね。
当時、百貨店は街のシンボルでした。東武宇都宮百貨店と上野百貨店は宇都宮の二大百貨店だったので、そこをつなぐ通りは、市民の買い回り経路として使われやすかったのでしょう。
その頃から、宇都宮市には百貨店が次々に建っていきます。現在のオリオンスクエアの場所に山崎百貨店が開店します(1957(昭和32)年)。1962(昭和37)年には馬場町に福田屋百貨店が開店します。オリオン通りの曲師町にも熊谷百貨店が開店しました。
まあ、当時は少し大きいお店はどんどん「百貨店」という名前になっていましたから、それぞれの規模はバラバラです。
私は1950(昭和25)年まで高校生でしたから、学校帰りにオリオン通りをよく歩きました。書店や古書店も軒を連ねていたので、よく立ち寄って本を眺めていました。
5 餃子のちょっといい話
宇都宮と言えば餃子、と全国的に認知されていると思います。私が若い頃は、餃子の店はごく少数でした。今みたいに中心商店街に何店舗もあるような光景は見られませんでした。そもそも中華料理店があったかどうか、記憶にありません。仲見世は食べ物はおでんが中心でしたね。
宇都宮餃子といえば「宇都宮みんみん」ですが、あの店の誕生について、父が少し関係しているんです。この話、誰にしても信用されないんですけれどね(笑)。
「宇都宮みんみん」の創業は1958(昭和33)年で、創業者は鹿妻(かづま)さんご夫妻でした。ご主人の芳行さんはお酒が全く飲めない人で、その代わりにうちの店によくコーヒーを飲みに来ていました。
鹿妻さんたちが最初に開いたのは「ハウザー」という健康食品の店でしたが、これは成功しませんでした。みんながまだ食えない時代に健康食品は売れなかったんです。それで、餃子も健康食だからということで、餃子専門店に業種転換しました。その時に芳行さんは、自分がお酒が飲めないので、店でも出さないことにしました。ふつう、飲食店ではお酒を出しますから、酔っ払いも多い。それで女性たちは怖がって、気軽に店に入れませんでした。ところが「みんみん」ではお酒を出さないので、女性でもお店に入ることができたんです。近くに栃木県庁や宇都宮市役所がありますから、そこで働く女性が仕事帰りに立ち寄るようになり、お店も女性客が中心。男性は逆に恥ずかしくて入れませんでした(笑)。
「みんみん」で餃子のおいしさを知った女性が、それを家庭に持ち帰り、宇都宮に餃子が定着していったのだと思っています。
鹿妻さんは酒を出さない理由を「酒を飲むと餃子の味が分からなくなるから」と言っていましたね。実際には、ご自分が飲めなかったことがきっかけだったようです。彼はその後TKCの役員になり、伊藤和夫さんに店を譲りました。
6 バンバ通り商店街青年会の発足
先ほども言った通り、戦後のバンバは繁栄していました。
ただ、戦後しばらくすると、モータリゼーションが進み、駐車場問題が徐々に出てきました。来てくださるお客様のために駐車場が必要だということで、いろいろな案が出されました。釜川に蓋をして駐車場にしようとか、宇都宮二荒山神社を削って駐車場を作ろうとか、そんな話も出ていたほどです。でも、それは不可能ではないけれども、実際には無理でしょう。であれば、商店街活動をどう活発化していけばいいのかということになり、バンバ通り商店街青年会が立ち上がったのです。1960(昭和35)年11月のことです。
私も発起人の1人で、設立後は事務局長をやっていました。私はそれ以前に宇都宮二荒山神社の氏子青年会に入っていましたので、そのつながりで声をかけていきましたから、まとまりは早かったと記憶しています。
青年会が中心になってさまざまなイベントを行いました。初めての売り出し(バンバ通り歳末セール)では、当時大人気だった自動車「スバル360」を抽選の特等商品にしました。豪華でしょう。何回かそういう売り出しをやりましたが、楽しかったですね。
それがさらに進んで、今度は「バンバ音頭」を作り、その発表会をやりました。私も、踊りの指導者になっています。盆踊り大会も毎年開催していました。その頃の会長は粕谷種店の粕谷忠市さん、副会長が関口園の関口正男さんと、みやこ寿司の高山賢二さん。
石井洋品店の石井好夫さんもいろいろ手伝ってくれました。みんな、今では鬼籍に入ってしまいました。
7 ライフスタイルの変化
バンバの繁栄を考えてみると、戦前は軍都であったことが大きかったと思います。戦後は他の都市にくらべて再開発がうまく進んだことが挙げられるでしょう。もうひとつはデパートブームですね。デパートが集中したおかげで繁栄したと言えると思います。
でも当時から駐車場問題は徐々にのしかかってきていました。青年会の議事録を見ると、半分くらいは駐車場問題の話でした。熱心に取り組んでいたんです。
その頃、宇都宮市の商工課の人たちと一緒に千葉へ視察に行ったんですが、そこには立派な立体駐車場があって、「すごいな」とびっくりしました。宇都宮にはありませんでしたから。そういう点で、駐車場に関しては出遅れてしまっていました。
それから、これはもう少し後の話になるんですが、ライフスタイルの変化が大きな影響を与えています。市民の生活が徐々に夜型にシフトしていったんです。その象徴が深夜放送の人気であり、セブン-イレブン(コンビニエンスストア)の誕生(セブン-イレブンの第1号店は1974(昭和49)年、豊洲店。栃木県への出店は1979(昭和54)年2月)でした。
夜型ライフスタイルが浸透していっても、宇都宮の商店はなかなか対応できませんでした。デパートも含め多くの商店が昔と変わらず午後6時にはシャッターを下ろしていました。「何もしなくても客は来る」というバンバの商店のプライドから、抜け出せなかったんでしょうね。
私自身は、大野屋が店を閉じたこともあり、ずいぶん前に青年会から抜けていました。1967(昭和42)年、35歳の時でした。その後はさまざまな仕事をしていましたが、落合書店の創業者の落合雄三さんに誘われて書店に勤めることになり、定年まで勤めたのですが、オリオン支店、バンバ支店の店長を務めたりしていましたので、そういう意味では中心商店街を見続けてきた人生だったと思います。
■これからの宇都宮
宇都宮市は道路の横にまた道路があり、都市として重層構造なんです。比較的狭い地域に集中していますから、その分街の姿もいろいろな顔が作れると思います。今でも大通りとオリオン通り、ユニオン通り、釜川沿いなど、道によってずいぶん特徴がはっきりしてきていますよね。
地域や町ごとに特色を作ることが大切だと思います。昔「買い回り」という言葉がありましたが、あちこちの店を歩いて回っても、全体が広くないので行きやすいんです。
宇都宮市のもともとの中心は、伝馬町でした。その後駅ができて大工町や千住町に移り、さらに馬場町に移って、今はオリオン通りになっています。今後もさらに移っていくかもしれません。これも、全体がコンパクトだから中心が移りやすいからでしょうね。その中にあって商店街は、それぞれが個性を強めていくことが求められると思います。そして、競い合っていくことが重要ではないでしょうか。
大野氏ギャラリー
左上:大通りにあった森永キャンデーストア(昭和4年撮影)
右上:移転したばかりの森永キャンデーストア。1階が店舗、2階が住居だった。左端が祖父、右から2番目が父。(昭和6年撮影)
左下:戦後の大野屋と大通り(昭和30年頃)
右下:終戦直後の二荒山神社。正月の風景。右端に米軍兵士の姿も見える(昭和21年)
Comments