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第4回 中島飛行機から富士重工業、そしてSUBARUへ

更新日:2023年2月24日

株式会社SUBARU執行役員・航空宇宙カンパニープレジデント

戸塚正一郎さんインタビュー


戸塚氏は福岡県出身、昭和58(1983)年に当時の富士重工業株式会社(現株式会社SUBARU)に入社。平成29(2017)年より現職。同社航空宇宙カンパニープレジデントとして多忙な日々を送っておられます。


■戦前から戦後の飛行機生産開始まで

 宇都宮製作所は昭和18(1943)年に、中島飛行機の宇都宮製作所として開設されました。

 中島飛行機は大正6年(1917)に、群馬県の尾島町(現在は太田市)で創設された会社です。中島飛行機で生産していた飛行機は九七式戦闘機に始まり隼、疾風などの戦闘機が有名です。

 日本の戦闘機というといちばん有名なのは零式戦闘機(ゼロ戦)でしょう。ゼロ戦は三菱重工のイメージがありますが、生産機数で言えば中島飛行機の方が多く、総生産量の2/3に相当する3万機以上を生産し、設計元の三菱を上回っています。さらにエンジンは中島の栄エンジンを搭載しており、当時は東洋最大、世界でも有数の航空機メーカーだったのです。

 宇都宮製作所を開設した理由は、太田製作所が手狭になったからです。宇都宮では疾風の生産が行われました。なぜ宇都宮だったのか、選定の経緯などは、戦前の資料が終戦時にほとんど廃棄されてしまっていますから、確かなことは分かりません。

 これは私の想像ですが、宇都宮市はもともと軍都で、陸軍がかなりの拠点を構えていたことが、大きかったと思います。加えて国鉄(現JR)と東武鉄道が通っていました。物資の輸送には非常に利便性が高かったのだと思います。ちなみに戦後はここで列車の車輛などを生産するようになりましたが、これも工場の敷地の直近を国鉄の線路(日光線)が通っており、引き込み線を敷設することができたのが便利だったからだと思います。

 終戦直前、宇都宮市は何度も米軍の空襲を受けました。特に被害が大きかった昭和20年7月12日の「宇都宮大空襲」では、市街地の約65%が被災、600人以上が犠牲になりました。繰り返し行われた米軍の空襲により、宇都宮の街は大きな被害を受けましたが、私どもの知る限りでは、この工場の敷地では爆撃を受けた記録がありません。開設時の工場の建物が、今も残っていて稼働しているほどです。

 戦後、中島飛行機はGHQによって解体され、当時の従業員は技術力を活かしてさまざまな分野で生産活動を行っていました。鍋、釜といった生活必需品から、その後は鉄道の車両やスクーターなども生産していました。その多くは別会社でやっていましたが、昭和28(1953)年に再合同して富士重工業が誕生しました。

 当時の宇都宮では「宇都宮車輛」として列車の車両を生産していましたが、米軍の飛行機の修理なども行っていました。ですから再合同後には、アメリカの練習機(ビーチ・エアクラフト社「T-34」)のライセンスを貰って生産する形で飛行機の生産が再開されました。

 列車車輛生産とバス車体製造については、平成14(2002)年で事業から撤退しましたが、今でも懐かしく話される方が多いですね。

 戦後の日本で最初に作られたジェット練習機T-1は、この宇都宮製作所で作られました。昭和33(1958)年のことです。

 先日の国体でブルーインパルスが飛行しましたね。あの飛行機は川崎重工業の練習機T-4です。ただ、翼やキャノピー、スモークを吐く部分、射出座席などはここで作りました。当日は従業員全員で、ブルーインパルスの雄姿に拍手しました。パートナー企業の方もいらっしゃって、一緒に見ながら「うちで削った部品が付いている」と喜んでおられました。


■現在の宇都宮製作所について

 私どもSUBARUには、かつてはいくつもの部門がありましたが、現在は自動車部門と航空部門だけになっています。宇都宮市にあるのは航空部門の「航空宇宙カンパニー 宇都宮製作所」です。土地面積は572,000㎡、そのうち建物の延面積は228,000㎡で、そこで約1800人が勤務しています。

 航空宇宙カンパニーの主な業務は、航空機の研究開発、生産、販売、メンテナンス、運用支援などです。事業としては防衛事業、民間事業(ボーイングが中心です)、それにヘリコプター部門が主です。無人機事業も行っており、これは国内随一の実績があります。

 事業拠点として、宇都宮にはさまざまな利点、魅力があります。

 ロジスティックスの面で言いますと、国道4号線と東北自動車道が近接しており、北関東自動車道もありますので、大変便利な立地です。さらにJR宇都宮駅や東武宇都宮駅の駅まで車で約10分と公共交通の利便性にも優れていますから、人の移動にも不便を感じることはありません。

 宇都宮製作所で生産している航空機の中には、主翼が20mクラスのものもあります。しかし素材や完成した主翼などを輸送する際も何の問題もありません。この点からも、優れた立地であることを実感しています。

 また、宇都宮市内に工場があることで、そこに働く従業員にとっても利便性の良い生活環境を提供できています。宇都宮市は、車を所有していれば衣食住や医療、教育などがいずれも近距離にあり、また安価で賄えます。非常に生活しやすい環境だと感じています。

 さらに、自治会や交通安全運動など地域活動も活発ですし、人柄の暖かい風土ですから、県外出身者も安心して家族を地域に預けて仕事に集中できます。こういう点も、栃木県や宇都宮市の良さだと思います。


■地域の企業とのかかわり

 パートナー企業様とも良好な関係を築いています。信頼できるパートナー企業を持てるのは、事業を行う上で、大変重要なポイントです。その点でも宇都宮市や栃木県は、大変すばらしい環境であると考えています。

 パートナー企業様は、私どもSUBARUの生産と共に歩んでくださっている方々ですから、常に大切に考えています。それも、その会社の社長様や従業員の方々だけでなく、そのご家族の方々にもしっかりと思い致すことが大切です。単に仕事の関係ではないのです。

 パートナー企業様も、「SUBARUの仕事を通じて国の防衛に貢献している」「旅客機生産を通して便利で楽しい生活を提供している」「ヘリコプター事業に関わることで、国民の安全安心の支えになっている」という気概を持っていただいていると思います。

 現在、私どもでは素材から部品加工、装備品まで、防衛事業や航空事業に携わる幅広い分野でさまざまな会社とのサプライチェーンが形成されています。これは、私どもとしては中京地区に次ぐ大きなものとなっています。

 栃木県の協力会には、現在26社にメンバーになっていただいております。昨今はコロナ禍や世界経済の混乱により残念ながら民間機需要が低迷しており、協力会の皆さまにもご苦労をおかけしていますが、今後需要回復が見込まれますので、遠からず再成長に向かうものと、期待しています。

コロナになる前は、航空産業は右肩上がり、長期安定的な需要で成長してきました。しかし2019年末から2020年初頭にかけて急速に蔓延していった新型コロナウイルスの影響により、あっという間に需要が崩れ、仕事量が激減してしまいました。幸い2023年にはようやく終息の兆しが見えてきますが、約3年間のコロナ禍で私どもだけでなくパートナー企業の皆さまも、大きな打撃を受けています。私どもでは各社の状況を可能な限り把握し、可能なことはすべてやってきました。主な対応は、

・人員の働き先として当社自動車部門を紹介

・品質管理資格維持費用の県補助の働きかけ

・原材料価格UPに対する適正価格への対応

などです。

 私自身、パートナー企業様各社を定期的に訪問し、状況をお聞きし、そこで得られた情報をフィードバックするようにしています。長年の取引関係の中で育まれた信頼をベースに、共存共栄の精神を守っています。

 宇都宮製作所の歴史は長いですから、お付き合いのある企業様の多くでは経営者が代替わりし、中には3代目が継がれている企業様も少なくありません。

 その中には若い頃に当社に入り、私どもと一緒に汗を流しながらさまざまな技術や生産技術について学ばれ、現在は経営者として活躍されている方もたくさんおられます。それらの方々が地域経済や自治活動などでリーダーシップを発揮したり、お互いの企業で役員を務めたりされています。単なるお取引先という立場を超えて、非常に健全な地域ぐるみ、家族ぐるみのお付き合いをさせていただいていると実感しています。

 長くお付き合いをさせていただいている企業様の方が、私どもよりも私どもの歴史や経緯をご存じのこともあります。かつてどこに何があった、これとこれは誰と誰が行った投資であるなど、後世に伝えるべき様々な情報を勉強させていただくことがしばしばあります。本当にありがたく感じています。


■航空宇宙産業へのアプローチ

 栃木県内の航空宇宙産業では、私の4代前の航空宇宙カンパニー代表だった出射聡さんが作った、産官学連合の「栃木航空宇宙懇話会(TASC)」が、重要な役割を担っています。発足後25年が経ちましたが、会員数が78社から87社に増え、活動規模が拡大し、それにともなって連携も強くなっています。2021年には帝京大学の超小型人工衛星が打ち上げられましたが、この開発や製作には県内企業10社以上が参加しています。同大学では次期小型衛星の開発をスタートさせていますが、TASCも内部に栃木衛星研究会を立ち上げて協力しています。日本国内で小型衛星の打ち上げが活発化しており、県内企業の宇宙産業に対する期待も大きくなってきています。私どもも蓄積してきた知識や技術、ノウハウなどがありますから、行政とも協力しつつ、地域産業の発展に貢献していきたいと考えています。

 私どもでは現在、防衛産業とボーイング(民間機)、それにヘリコプターの3事業でやっています。その先に、宇宙があります。衛星分野やロケット開発など、どのような分野で貢献できるかについて常に考えています。これについても今後産学官連携の中で、大きく盛り上がって行くのではないでしょうか。今後、さらに伸びる産業分野だと思います。

 現時点で、栃木県の航空機部品出荷額(2020年度)は、愛知県に次いで2番目です。すでに大きな実績を残しています。これからも県の政策ともベクトルを合わせ、さまざまな企業とも協力しながら、やっていきたいと思います。


■地域貢献について

 戦前の中島飛行機と現在のSUBARUは、歴史的には太平洋戦争の終結で一度途切れていますが、戦後も地域の皆さまから歓迎され、こうして地域の中で事業を行えたことは、大変ありがたいと思っています。

 SUBARUグループはCSR重点6領域を掲げて活動しています。

「人を中心とした自動車文化」「共感・共生」「安心」「ダイバーシティ」「環境」「コンプライアンス」です。地域との関わりは「共感・共生」ですね。人と人とのコミュニケーションの輪を広げ、1人ひとりのお客様と社会の声に真摯に向き合うことで、信頼・共感され共生できる企業になることをめざしています。今日お話しした地域貢献活動は、いずれもこの考え方の実現です。これからも強化継続させていきます。

 SUBARUは「2030年交通死亡事故"0"」を目標に掲げ、全社的な取り組みを行なっています。宇都宮製作所としても地元の警察署や団体と協力しながら、さまざまな事業を行なっているところです。2022年4月には栃木県警・安全運転管理者協議会の共催による「春の交通安全県民総ぐるみ運動」が開催されましたが、その際に弊社南工場をイベント会場として提供し、地域のディーラー各社に参集していただき、県民の皆さまに交通安全の大切さを訴えました。こうした活動は、年間を通して力を注いでいます。また、私自身も南宇都宮安全管理者協会の会長を務めさせていただいてます。

 交通安全以外にも、宇都宮労基署管轄の災害防止団体の1つである「宇都宮地区プレス災害防止協議会」の会長会社を長く務めています。自社の従業員の安全はもちろん、地域全体の安全運動に力を注いでいます。

 近年はさまざまな自然災害が発生しており、全国で大きな被害がしばしば発生しています。私どもでは2019年に宇都宮市と防災協定を締結し、災害時の人材や物品の協力、地域住民の車両避難場所の無償提供など、地域の防災活動に協力することをお約束しています。災害は無いに越したことはありませんが、万が一の場合に私どもとしてできる限りの地域支援をさせていただくことになっています。

 また、「納涼盆踊り大会」は1984年から毎年実施し、いつも1000人ほどの方にご参加いただいてきましたが、コロナ禍の影響もありここ数年は自粛していました。昨年(2022年)は3年ぶりに実施を決めましたが、盆踊りのない夏祭りという形で、9月3日に感染症対策を強化し開催しました。当初は1000人程度の来場を見込んでいましたが、蓋を開けてみれば2500人ものご参加をいただき、さらに参加予定のなかった知事も急遽駆けつけてくださいました。子供たちが金魚すくいなどを楽しむ姿や、それを見守る家族の方々の笑顔を見て「ああ、やって良かった」と感じました。


■歴史の中のDNA

(「中島飛行機があったから、今のSUBARU様の高い技術力があると考えられますか」との質問に)

 もちろん、中島飛行機が全ての始まりというわけではありませんが、日本の工業生産のある部分には貢献したと思います。

 ただ、宇都宮大空襲も私ども軍需工場を目標にしていたという歴史があり、市民の方々にご迷惑をおかけした歴史があったことは、間違いありません。ですから私どもではこれまで、積極的に戦前のことは発信して来ませんでした。ただ工業技術的には、日本の工業技術には中島飛行機のDNAが大きな位置を占めていると思います。


【写真アルバム】

上段左:陸上自衛隊の次世代多用途ヘリコプター UH-2

上段中:2022.9.3 夏祭りの様子

上段右:SUBARU BELL 412EPX

下段左:中島 4式戦闘機 疾風(入間復元機)

下段右:戦後初の国産ジェット機 T-1練習機


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