第8回 バンバの移り変わりからまちづくりを語る(1)
- Kikoh Machidukuri
- 4月20日
- 読了時間: 10分
更新日:4月22日
斎藤商事株式会社 齋藤高藏さん / マスブチスポーツ 増渕洋介さん
終戦直後から昭和39年(1964)の東京オリンピックにかけて、宇都宮市は復興から繁栄への道をたどりました。日本全体が大きく変わったこの時代、宇都宮市も大きな変化を遂げました。
バンバを拠点に商売を営み、変遷の過程をつぶさに見てきた、斎藤商事の齋藤高藏さんとマスブチスポーツの増渕洋介さんに、当時の思い出を話していただきました。

左:齋藤高藏さん、右:増渕洋介さん
戦後の繁華街の思い出
齋藤 私の生まれたのは宇都宮市の中心商店街で、最近まで宇都宮パルコ(今度、ゼビオに変わる予定です)であったあたりです。あそこに桝金の本店がありまして、子どもの頃からそこにずっと住んでいました。建物は確か木造の2階建てだったと思いますが、私の小さい頃には一部3階になっていたかも知れません。
その脇に、今はもう暗渠(あんきょ)になってしまいましたけれども、求喰川(あさりがわ)という川が流れていました。
また、戦前から戦後にかけての宇都宮市中心部の話題になると必ず話題に上る「仲見世」が、現在の二荒通りにありました。また、現在のMEGAドン・キホーテの場所には映画館が4館あり、その裏に私の祖母が住んでいました。当時はまだ、鏡ヶ池がありました。
それから、ごく小さい規模の動物園もありました。私の記憶では、サルとクジャクぐらいしかいなかったと思います。さらに、私はちょっと記憶にないんですけれども、昔はそこに子供が乗れるくらいの小さな電車が走っていたそうです。私の記憶の中に残っておりますのは、そんな程度です。
増渕 私は(齋藤)高藏さんとは年が3つ違いますが、基本的に同じ町内です。ですから同じ風景の中で育ってきました。
東京オリンピック(昭和39年)の4年ほど前から、二荒山前の馬場の交番がありました。今の方は交番があったことは多分ご存じないでしょう。その話をすると、皆さん驚かれます。
交番側の仲見世には、呑み屋さんがたくさんありました。反対側はおもちゃの店などがたくさんありました。
齋藤 あんな狭いところにあったのが、今思えばすごいことでしたね。
――仲見世は3列あったと伺いましたが、呑み屋さんはどのあたりにあったのでしょう。
増渕 呑み屋さんは、ほとんどが二荒通りの東側でした。1人でやっている小さいお店が多かったですね。それで、真ん中の列には雑貨店。下のほうにはウナギ釣りとか、いろんな店がありました。そして西側、映画館が並んでいた側の列には、飾り物を売ったり、おもちゃ屋があったりなどしていました。
そういう店が、オリンピックの時にはみんな釜川に移転して、そのおかげで街の様子もずいんぶん変わりました。
そういった変化は、私には近代化と言うよりも、要らないものが徐々に全部捨てられていく光景に感じられました。もう呑み屋さんは要らない。自転車置き場屋さんも要らない。だんだん店や物が無くなっていく。そして代わりに別種の飲食店が入ってくる。そういう時代でした。呑み屋などは全部、釜川沿いに全部移転したんですよね、斎藤さんは覚えていると思うんですけども。
今となっては、当時の風景をいくらことばで説明しても、伝わらないと思います。そして、そこがどれほどの人出で賑わっていたのかということも。
――そういった戦後の変化の中で、もっとも印象深いのはどんなことでしょうか。
齋藤 街中に映画館がなくなったことでしょうか。
映画は、戦後は最も人気のあった娯楽の一つだったと思います。あれだけ栄えた映画館が、今では中心市街地からほぼ姿を消してしまったことは、大きな変化の一つじゃないかと思います。
映画が衰退したので、私ども斎藤商事では代替の何かを考えなくてはなりませんでした。そこで出た案が西武百貨店さんの誘致でした。
映画館から百貨店へ、時代によってまちなみにも大きな変化が生じていきました。
増渕 映画館や仲見世に来る人の多くは、自転車を使っていました。今だったら自動車でしょうが、当時はまだ、庶民が自家用車を持つ時代ではありませんでした。だから自転車が庶民の交通手段だったのです。そのおかげで栄えていたのが、自転車置き屋さん。それで、仲見世近くの通りには自転車置き場屋さんが栄えていました。道路の並びは、ほとんど自転車置き場だったんですよ。
ところが、そんなにたくさんあった自転車置き屋が、東京オリンピックの前までに、あっという間になくなってしまいました。
齋藤 東京オリンピックを契機に、宇都宮の街もずいぶん変わったと思います。

齋藤高藏さん
――バンバには招魂社(※)もありました。古い写真や絵ハガキが残っています。あれがなくなったのも、大きな変化だったでしょう。
増渕 僕が小学校の時は、招魂社がまだ山の上だったんですよ。大通りの北側、上野百貨店の側にビルができるので、南側にあったマスキンさんなどが削られてしまったのですが、招魂社だけは岩山の上に、まだありました。
齋藤 大通りは、昔はあんなに広くなかったのです。大通りは、確か2回ぐらい拡張になっています。その際、広げたのはみんな南側ばかりでした。最終的には招魂社も壊してしまいました。
招魂社が置かれていた岩は砂岩でしたから、子供の頃はあそこで化石採りをしたりしました。貝が出たりサメの歯が出たり、そういう思い出がありますね。

※招魂社 明治維新前後の内戦(戊辰戦争など)や、その後の対外戦争で亡くなった志士・軍人・兵士を「英霊」として慰霊・鎮魂するために、明治新政府や諸藩が創建した神社
――オリンピックとか国体とか、そういったイベントがある度に、街が変わって行きました。私などは、釜川沿いの飲食店が集約されて「釜川飲食街(オリオン通りから続く釜川沿いのエリア)」という細い路地の中に入ったことにも、変化を印象付けられました。
増渕 今も残っている公衆便所の隣も、戦後すぐは山だったんですよ。それを崩して市営の集合住宅ができ、1階に呑み屋などが入りました。その時に後ろ側にあった招魂社の山も削って、駐車場になったんだと思います。
齋藤 その後、二荒山の下之宮を、パルコ建てる時に現在の場所に移設しました。二荒山神社発祥の地である下之宮は、本来はもう少し奥まったところにあったんです。
増渕 昭和39年のオリンピック以後、街の風景が大きく変わったと思います。昭和36年か7年に福田屋さんが日野町から、現在の野村證券のところに移転しました。
齋藤 福田屋さんがあそこ日野町にあるっていうのは、知っている人少ないですよね。
増渕 福田屋ができて、その後昭和47年には西武百貨店が開業して、いろいろな変化が本格的になってきました。
――宇都宮市は一時期、全国でも稀に見る百貨店の激戦地でした。東武、西武、丸井など。地元の店舗では福田屋、十字屋、山崎など。それだけ人が集まってきて回遊していたのですね。
増渕 年下の方に「宇都宮のお祭りは、元々は7月なんですよ」と言うと「えーっ、8月じゃないの?」と驚かれます。そういうリアクションを見る度に感慨深いです。天王祭も菊水祭も知らない方が多いんですよ。
齋藤 おっしゃる通り、宇都宮の祭りというと「ふるさと宮まつり」だと思ってる方が多いと思います。本来であれば「宇都宮の祭り」と言われて名前が上がるのは、まずは天王祭(7月)であったり、菊水祭(10月)であったりするわけです。もちろんふるさとの宮まつりが悪いということではございませんけれども、近年始まったイベントと、古来からの神事としての祭りでは、それぞれのにぎわいのあり方が違うようにも思います。
増渕 そうですね。
齋藤 あの頃は、流鏑馬は仲見世の脇を走ったんです。現在の日野町あたりからスタートして、仲見世の立ち並ぶ傍らを走って登って、大通りを超えて境内まで行っていました。大通りには稲わらの厚いむしろを敷いて、それを水でぬらして滑らないようにして、そこに砂をまいて、道を作っていました。それによって、登り加減のところをずっと馬が駆け上がれたんです。
当然、現在より、ずっと距離が長かったのです。ですから、当時はきっと的は3つあったと思います。

増渕洋介さん
旧町名のこと

齋藤 つい先日、会合があった時に鉄砲町の話が出ました。鉄砲町は店や住人がどんどん減って、もう町内会としての活動ができないということで、ついに馬場町の町内会と合併しました。「鉄砲町」という名前くらいは、なんとか残していきたいと思っています。
――古い町名の多くは消えてしまっていますね。私は60代後半ですが、鉄砲町とか曲師町とかって言われたほうが、何々何丁目って言われるよりもわかりやすい気がします。
齋藤 分かりやすいですよね。
増渕 大通り何丁目と言われても、すぐには分からなかったりしますね。元石町なのか石町なのか、町名であればはっきり分かりますが、1丁目2丁目と言われても……。
齋藤 私は自治会をお手伝いしていますが、名称は今も旧町名で続いておりますからね。私も相生町として中央地区のほうの自治会、連合自治会に入っています。
今お話ししたように、残念ながら鉄砲町が馬場町と合併しました。町内にいるのがもう2~3軒になってしまったからという理由でした。
それでも、曲師町という名前は残っています。他にも、町内会の名称で残っている旧町名は少なくありません。ですから昔の名前が無くなってしまったというわけではないと思っています。地名としては何丁目になっていますけれども。
増渕 小さい頃から「おまえ、どっから来たんだ」「どこそこだ、旭町だ、曲師町だ」という会話を聞いているうちに、町名を自然に覚えていましたね。今の方はそれが無いから、旧町名に親しみも薄いのかも知れません。
齋藤 長らくお住まいになっている方にとっては、その何々町で生活した、生まれたっていうことは大切な記憶なんですけれどね。
戦後の変化
――昭和20年(1945)7月13日の宇都宮大空襲をはじめ、何度も実施された米軍の空襲により、宇都宮市中心部は焼け野原になりました。
増渕 小さい頃、鉄砲町にあったこんにゃく屋さんから話を聞いたことがあります。
その方は、宇都宮大空襲の際には戸祭の親戚に避難したそうなのですが、空襲が終わって2日か3日して帰ってきた時、鉄砲町のずっと手前から旭町の大イチョウと、どこかの蔵だけが見えた。他は何もなくなっていた、という話をよくしてくれました。
齋藤 焼け野原になった宇都宮ですが、復興は結構早かったんですよね。みんな区画整理をする前にばらばらと家を建てちゃったので、今でも道がなかなか広く取れない。大通りも、実は3回くらい拡張しています。
そういう中で、家業のことで言えば、すぐに掘っ立て小屋を建てて映画館を再開し、映画を上映したそうです。
私はまだ生まれていませんから、実際の様子は分かりませんけれども。「復興が早過ぎたために区画整理が少し遅れた」という話は耳にしています。もしそうなら、良し悪しはともかく、現在までのまちづくりに影響を与えているのかも知れません。
戦後の街の様子
齋藤 ご商売も、飲食店、仏具屋、カメラ屋などさまざまでした。
増渕 私の家(マスブチスポーツ)のまわりを見ると、鉄砲町通りから春木屋さん(毛糸屋)、集英堂(楽器店)、うち、浜吉(飲食店?)、桜寿司がありました。さらにもう少し南にはむぎくら(飲食店)がありました。
私が小学校1年か2年の頃ですけど、土曜日などはタクシーで、浜吉や八百駒に客が続々来て、どんちゃん騒ぎしていました。「うるせえな」と、本当に思いましたね。だって、芸者上げて大騒ぎしているんです。ビールの瓶がぶつかり合う音がガチャガチャ、飲み終わって片付けている時に出ていたのでしょうけれど、実にうるさかった。それと、酒臭くてすごかったのも覚えています。
うちも店を8時ぐらいまでやっていたらしくて、そうするとスポーツ好きな人が飲んだ後に来て、お茶飲みながらいろんな話をしていました。そういうのを聞いて育ちました。
それから、私の店の前が「ささもり」という蕎麦屋さんです。昔は、宇都宮市から市外へ帰る人のほとんどが、バスでした。この人たちが、バスに乗る前にあそこで一杯飲みながら、蕎麦やカツ丼、ウナギなどを食べて帰っていたんです。
「あの辺に鰻屋さんありましたか?」と色々な人に聞かれますが、専門店以外でも鰻料理を出していたんです。仕事終わりに、そういう店で腹を満たして、一杯飲んで、それから長時間バスに揺られて家に帰っていたんです。そういう光景を、今でも思い出します。












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