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第7回 昭和20〜30年代、変わりゆく国鉄宇都宮駅周辺(その1)

薄井ビルオーナー 薄井光明さんインタビュー


JR宇都宮駅西口は、いま徐々に再開発事業が進められています。AからFの6街区に分けて行われている事業の中には、すでに終了したところもあり、西口の街の風景が大きく変わりつつあります。薄井光明さんは「薄井ビル」のオーナーとして、宇都宮駅西口地域のまちづくり事業にも深く関わってきました。薄井さんの実家は、もともと戦前からそこで旅館を営み、戦後は父母が中心となって魚屋や菓子店、パチンコ店などさまざまな事業を経営してきました。そんな家に育った薄井さんが見てきた、戦後の宇都宮市の風景をお話しいただきました。


宇都宮駅西地区に生まれ育って


 私は昭和17年(1942)3月17日生まれで、今年で82歳です(取材日は令和6年12月)。

 こどもの頃の記憶でいちばん古いのは、祖父の背中で見た宇都宮大空襲でした。

昭和20年7月のことです。私はその時、3歳でした。

 当時は祖父の代で、父は兵隊に取られていました。私の家はこの場所で旅館を経営していました。

 その日、ここは集中して焼夷(しょうい)弾を落とされました。その理由は、ここに駅があり、田川が通っているので、アメリカ軍は「ここを攻撃すれば輸送路を遮断できる」と判断したのでしょう。そのため、かなり集中的に焼夷弾を落とされました。宇都宮市内では馬場町のあたりも集中して落とされたようですが、二荒山神社周辺は回避され被災はまぬがれたようです。

 3歳だった私が覚えているのは、駅東の田んぼ(当時の駅東側は、まだ田んぼが広がっていました)から自宅の方を見ると真っ赤に燃えていたことだけです。私は祖父に背負われていました。雨が降っていたことも、微かに覚えています。

 一夜明けると、ここはもう一面の焼け野原で、とても住めませんし、また空襲にあったら危険ですから、疎開しました。15キロ離れた上桑島に松本家という大農家があり、祖父の妹さんがそこへ嫁いできたので、全員で1年間、そこへ疎開しました。

 私の実家は「かなぐつや」という旅館を経営していましたが、祖父は——その時、父はまだ復員していませんでした——戦災と終戦の混乱の中で再開するのは無理だと判断したのでしょう、戦後は別の商売を始めました。

 「かなぐつや」という屋号は、祖父の兄弟の米一郎さんがつけたそうです。今の上河内町で、馬のお医者さんをやっていた人です。旅館を開かせたのも、この人でした。

「これからは鉄道の時代」と考えてのことだと思いますが、本人は旅館経営には携わらず、その後も獣医を続けていたそうです。


終戦直後の思い出


 いまこのビル(薄井ビル)は約50坪しかありませんが、旅館をやっていた当時は120〜130坪ありました。もしかすると150坪ぐらいあったかも知れません。疎開から戻ってきましたが、父(要氏)もまだ復員せず、旅館の再開は諦めて焼け跡にバラック小屋を建て、祖父母や母、私などが住み、表の通りに面したところに戸板を並べて、果物を売っていました。そしてその隣を、近所の魚屋さんに貸していました。

 その後、昭和23年のアイオン台風か昭和24年のキャサリン(カスリーン)台風だったと思いますが、台風が東日本を直撃して、甚大な被害をもたらしました(注)。

 宇都宮市のこの辺りでも、田川が氾濫しました。私どもが住んでいた場所は土地が低かったので、大洪水になり、バラックも何も全部水浸しになりました。

 あの当時、うちではニワトリを飼っていました。うちだけでなく、あちこちの家で飼っていました。卵は貴重な栄養源でしたから、皆、農家からニワトリを買ってきて、ニワトリ小屋で飼っていました。これが洪水のために、全部ダメになってしまいました。ニワトリだけでなく、住居の畳も全部水浸しになりました。

 私たちは洪水から逃れて駅の構内で一夜を明かしました。次の日に戻ってみると、隣の魚屋にあった魚が水に流され、うちの床下に大量に入ってしまっていました。

そのため、とてつもない悪臭が漂っていました。魚屋さんは、それを機にそこで営業しなくなりました。

 こういった水害は、戦後3〜4回起こったと記憶しています。

 その当時、田川の上流に製紙工場(下野製紙)がありました。現在のように厳しい環境対策基準がない時代でしたから、工場の廃液はほぼそのまま川に流していました。

そのため、田川の水質はかなり悪かったです。異臭も強くしましたし、川面には泡が大量に流れていました。また、簗瀬地区に田川の水を分水するために洗橋という堰がありました。ナイアガラの滝のようにごうごうと、水しぶきがあがっていました。

 それでも、田川は市民の憩いの場でした。花火大会や灯籠流し、出初め式などの行事もやっていましたし、押切橋のたもとには貸しボート屋がありました。

舟といえば、戦後になって舟を竹竿で漕いでいた人が、たまたま不発弾に触れてしまい、爆発した事件が起こりました。詳しいことは覚えていないのですが、大きな話題になりました。泥の中に沈んでいた不発弾の信管を、竹竿で叩いてしまったらしいです。戦争がまだまだ身近にある時代でしたね。

 もう一つ、当時の思い出をお話ししましょう。

 私どものバラックの隣に「マルゼン洋品屋」がありました。この建物が細長いつくりで、幅が狭くて。で、そこの洋品屋さんの奥の四畳半に、おばちゃんが寝ていました。

そこへ、しょうゆを満載にしてきたトラックが突っ込んだことがありました。

 夜中の2時か3時頃です。トラックは宮の橋を水戸街道の方へ曲がろうとしていたのだと思います。ところがカーブしきれなくて、横倒しになりながらズボーンとうちの中に入ってしまいました。

 その時は「爆弾が落ちた、また戦争か」と思ったほどの、すごい衝撃でした。

トラックからはしょうゆが大量に流れ出て、大変でした。

 そのトラックは、奇跡的におばあちゃんの枕元の1メートル手前で止まったので、おばあちゃんは無事でしたが、本当に怖い事件でした。


注:アイオン台風 昭和23年(1948年)9月15日~9月17日。岩手県で甚大な被害。

カスリーン台風 昭和22年(1947年)9月14日~9月15日。典型的な「雨台風」。利根川・荒川決壊で東京など関東平野が水浸し。群馬・栃木両県で死者・行方不明者1,100名以上。

(気象庁資料より)


復員してきた父が魚屋を始める


 父は、戦後少しで、復員して来ました。旅館はもうやめてしまっていましたから、復員後は宇都宮市役所に勤務しました。宇都宮市に競輪場を誘致する部署で仕事をしていたそうです。競輪場ができてからは、毎月競輪場の無料の入場券がたくさん送られてきたのを覚えています。

 台風の水害のせいで隣の魚屋さんが立ち退いてしまったので、そこもうちが受け継いで魚屋経営を始めました。昭和27〜28年の頃かな、もしかすると昭和30年だったかも知れません。

 しかし父は、魚屋の経営は母に全部任せて、自分は市役所を退職するとパチンコ屋を始めました。こちらも人を雇って経営していたのですが、イカサマをする人が増えて赤字になってしまい、1年くらいで閉じたと記憶しています。

 魚屋のとこが空いていたので、おふくろが、あそこの林松寺(栃木県宇都宮市南大通り4-2-25)の前にあった魚屋の板前さんに来てもらって経営していました。うちのおやじが一応経営者だったのですが、すっかり母に任せ切りでした。

 魚は、今はスーパーで購入することが多いと思います。そういうところでは、切り身にして売っていますね。でも昔は、アジでもサバでもサンマでもイカでも、みんな一匹のまま置いて並べていて、お客様が買う時に捌くのが普通でした。

例えばイカを買う人が「天ぷらにするので皮むいてくれ」とか「はらわた出してくれ」とか言うと、店の人がその通りに捌いて渡していました。だから、魚屋には板前の技術を持った人が必ず働いていたんです。


駅前大通りの拡張


 世の中が落ち着いて来ると、宇都宮市では本格的なまちづくりがスタートしました。宇都宮駅から池上町交差点のあたりまでの道路拡幅も計画され、私どもの土地がかなり削られることになりました。今だったら補償だ、代替地提供だと、大ごとになるところですが、当時は私のところでは、あまり土地に関心がなかった——と言いますか、まず食べるものに関心がありました。なので、拡張事業にも協力的に土地を提供していましたから、残った土地はずいぶん狭くなってしまいました。

 資料を見ると、戦災復興事業で宇都宮駅から池上町までの区間の拡幅工事がされたのは、昭和25年でした。その前までは18メートル幅だったのが、30メートルに拡幅することが決定しました。実際に工事が始まったのは昭和25年、終わったのは恐らく昭和31年か、2〜3年だと思います。私は中学生でした。

 父がパチンコ屋を始めたのも、実は拡幅工事の進捗と関係がありました。こういう工事は、何年にもわたって進められます。その間に何か商売をやるにしても、最後は立ち退かなくてはならない。それで、一時凌ぎの策としてパチンコ屋を始めた、ということも、理由の一つだったと聞いています。


作新学院野球部の優勝パレード


 私は、小学校は簗瀬小学校に通いました。中学校は、本来は旭中学校だったのですが、仲の良い同級生が「作新の中等部に行く」と言ったので、私も一緒に作新学院中等部に進学しました。

 作新学院高等部在学中の昭和33年に私は生徒会長に就任。当時は男子部と女子部に分かれていましたが、生徒会長は共通で1人選んでいたのが、この年からそれぞれ別の生徒会長を選ぶことになりました。私は副会長に選ばれたのですが、会長になった生徒が中退してしまい、その後を私が引き継ぎました。

 この年、作新は夏の甲子園で準優勝しました。そして秋に開催された国体では見事に優勝し、大きな話題になりました。優勝パレードも開催され、私も生徒会の副会長としてパレードに参加し、その様子が新聞にも掲載されました。

 作新は、後に昭和37年、甲子園を春夏連覇し、その時も優勝パレードが行われましたので、そちらが有名ですが、その前に昭和33年の国体優勝時もパレードが行われました。

(前編終了)



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かなぐつや
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薄井菓子店
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