阿部敏夫さんインタビュー
阿部敏夫さんは宇都宮市の座敷帚屋の三男として生まれました。1954(昭和29)年に昭和医科大学を卒業後、1957(同32)年に塩谷病院佐久山診療所長に赴任。1960(同35)年に開業し、以来今日まで地域医療に尽力されています。多くの公職を歴任、表彰多数。
私は昭和35年に大田原市佐久山に阿部内科を開院し、今に至っています。来年は93歳になりますが、せがれに「終生現役だよ」と宣言して、まだ週に半分ぐらいは診察をしており、往診も(看護師や事務員に車を運転してもらって)まだやらせていただいています。
■私のこと
私の生年月日は、戸籍の上では1929(昭和4)年1月1日になっています。しかし実際にはその数日前、1928(昭和3)年12月28日に生まれています。父が市役所に出生届を出す際、私を早生まれにするために、わざと遅くしたのです。なぜそんなことをしたのは、今となっては分かりません。なにかいろいろな旨みがあったのかも知れません。また当時の日本は徴兵制度があり、長男以外は兵役の義務を負っていましたから、それに関係していたのかも知れません。
いずれにせよ、実際の生年月日で戸籍登録すれば同じ学年ではもっとも遅い「遅生まれ」であったのが、数日ずらしたことで「早生まれ」となりましたから、勉強では苦労しました。
そのせいなのか、長じてからの私はしばしば浪人を経験しています。医者を志して昭和医科大学を受験した時に一浪したのを皮切りに、インターンから国家試験合格を経て、いま開業している大田原市佐久山に安住の地を得るまでに、計4回の浪人生活を経験しています。それでも現在、93歳の今日まで現役で医師を続けられていますから、良い人生だと思います。
■実家のこと
私の生家があったのは、宇都宮市の野尻というところです。鹿沼街道沿いで、現在はJRA馬事公苑(注1)があるあたりになります。その頃は、鹿沼街道の周囲はまだうっそうとした風景でした。道路は舗装もされていなかったと思います。追いはぎが出た、というエピソードも聞いたことがありました。
私の実家の家業は座敷箒の製造と販売でした。鹿沼の農家に箒草を栽培させて買い取り、箒を製造するのですが、現在の宇都宮市文化会館のあたりに昔は刑務所があり、そこの囚人たちに作業をさせて作っていました。作った箒は「鹿沼箒」の名で、県内でも販売されましたが、国鉄(現JR)宇都宮駅に運ばれてそこから全国に発送されていました。その販売網は、北は北海道から南は九州まで広がっていました。
そういうふうに手広く商いをしていたからでしょう、父は実に物知りでした。子ども心に「なぜこんなに日本中のことを知っているんだろう」と思ったことが、何度もありました。
以前、実家の様子を自伝に書いたことがありますので、少し引用します。
自伝より引用:
私の生家は座敷箒の製造と卸業を営み、全国から注文を受けていたので奉公人(戦前は雇い人をこう呼んだ)は多い時で、十五人から二十人という大世帯になったこともあった。お勝手の板の間にずらっと箱膳を並べ全員が正座して居ならんだ食事の光景は、今でも目に焼きついている。真中に五升炊きの大釜と、それよりもふたまわりも大きい味噌汁の鍋がおかれ、お給仕役の母は手ぬぐいを頭髪にクルッと巻き、たすきをキリッとしめてその釜と鍋の真中に座っていた。
昔から飯と便所は早いほど良いといわれているが、文字通り約十分もすると皆食べ終わって箱膳はきれいに片付いている。
(中略)
私の兄弟は男が六人女が三人、水子を入れて数えると約十二人になるが、いま健在なのはこの中の生き残り組の合計五人である。
家業が盛況だった当時の、実家の様子をお分かりいただけると思います。
兄弟の人数を尋ねられた時「五人」と答えていますが、引用文中にある通り、実際には早世したものや水子(流産した子ども)まで含めると12人いました。そのうち5人が健やかに育ったので「5人」と言っています(私は三男です)。この5人はいずれも健康で、最近までは全員元気でおりました。
私の家には、大谷石の蔵が大小3つほどありましたが、私が子どもの頃にはそれらは軍隊に貸与しており、軍需物資倉庫となっていました。
現在作新学院(幼稚園~高等部)がある場所(注2)には、輜重兵(しちょうへい、軍需品を輸送する兵站を担う兵科)の部隊が駐屯していました(注3)。その輜重兵の部隊に貸していましたから、蔵の中には米俵や大豆の袋、塩などがいっぱいに詰まっていました。
私たち悪童は、竹で「さしこ」(注4)を作り、俵に刺して中身をこっそり抜いたりしました。1つの袋からまとめてとると分かるから、あちこちの袋からこっそり抜いて集め、裏山の林で飯盒を使って煮炊きし、食べたりしたものです。まだ7、8歳頃の、わんぱく時代でした。
近所の桶屋のとっちゃんのところに行くと餡子をもらえたので、栗の木から実を落として集め、もらった餡子にくるんで、うまいうまいと食べたりしていました。
実家の裏は栗の林や竹藪でした。戦争が終わる頃は、竹林は一町歩(約1ヘクタール)くらいありました。木や竹の根が広がっていたので、戦争が始まってそこに防空壕を作った時には、根がコンクリートのような役割を果たしてくれました。
裏の林は防空壕以外にも、いろいろな役に立ってくれました。ウドを栽培したり、芋を貯えたり、その時々の必要に合わせていろいろな利用ができました。
また、馬事公苑の場所は、当時は牧場だったのですが、冬はそこでスケートをやって遊んだりもしました。氷が割れて池に落ちた子どももいました。
食べ物の話で言えば、カエルを食べたこともあります。杉の根っこの中に巣をつくって繁殖していたので、おもしろ半分にひと口だけ食べてみました。味は覚えていませんが、多分不味かったのだと思います。
注1 JRA馬事公苑 1917(大正6)年に牧場が創設され、その後1954(昭和29)年からは日本中央競馬会(JRA)宇都宮育成牧場となって競走馬の育成を行っていた。現在は廃止され、東京都世田谷区にある馬事公苑の宇都宮事務所が仮設されている。
注2 現在作新学院がある場所 戦前は「下野中学校」という名称で現在の塙田町にあった。現在の場所に移転したのは戦後。
注3 輜重兵 宇都宮市に駐屯していたのは輜重兵第十四大隊(後に第十四師団)で、期間は1908(明治41)年から終戦まで。
注4 さしこ 「サシ」「サシ竹」と呼ぶ地域もある。竹を尖った形に切って、中をくりぬいたもの。これを俵に刺すと中に詰まっているものが流れ落ちる。戦後貯蔵タンクが普及する以前は、広く使われていた。
■父のこと
戦争中、父はよく「この戦争は負ける」と言っていました。それも戦争末期ではなく、日支事変(盧溝橋事件)の頃から、日本の形勢不利ということを予見していたようです。それはおそらく、商売の上での付き合いの広さや、常に勉強熱心であったことによるものだと思います。
父は村長の候補者になったくらいで、人望がありました。また、家には世界文学全集や日本文学全集など、本がたくさんありました。私はそれらを片端から読み漁りました。友人にも貸していましたが、返ってこない本も多く、それがばれて父から大目玉を食らったりもしました。
また、父は詩吟をやったり書道をやったりしていましたが、いずれもやる時には熱中した人でした。書道などは、筆先から滴る墨汁が凍るくらい寒い夜中に、習字を練習していたのを覚えています。そういう人ですから話題も豊富で話もうまく、一人前のスピーチができました。仕事も趣味も一生懸命に取り組んでいました。
■宇都宮実業と勤労動員
私が宇都宮実業に入ったのが、1941(昭和16)年。15歳の時でした。一浪しての入学でしたので、級友より1歳上でした。
私の兄弟はほとんどが宇都宮実業高校(宇実、現・文星芸術大学附属高等学校)か、宇都宮女子商業高校(現・宇都宮文星女子高等学校)に進学しました。宇実は早稲田実業学校と兄弟校のように交流しており、一時は野球の技術なども早稲田実業から学んでいました。
1941(昭和16)年は、戦争がいちだんと拡大された年でした。この年の12月8日、日本はハワイの真珠湾にあったアメリカ軍の基地を奇襲攻撃し、太平洋戦争が始まりました。
当初は連戦連勝でしたから、全国一斉に提灯行列が行われました。宇都宮市でも全町がまさに提灯のあかりの渦となり、圧巻の光景でした。
しかしその後はどんどん戦況が悪化、物資も滞りがちになって、国民は苦しい生活を強いられました。それに伴って私たち学生も工場などで働かされる「学徒勤労動員(注5)」が始まりました。
終戦前の1945(昭和20)年のはじめ、ちょうど宇都宮実業学校の4年生になった頃のことです。私たち生徒は、食糧増産の名目で、宝木練兵場の裏山にある雑木林の開墾にかり出されました。6班に分かれ、1班は唐鍬を持ち、その他の班も同様に何かしらの農具を持ち、作業をしました。汗を飛び散らしながら、まるで小人の農民の集団のように、山林を耕していったのでした。
たくさんの草木が、山の中いっぱいに根をはっています。その地面を15歳前後の中学生が息を切らして耕す様子は、今考えればまさしく非常時そのものの風景でした。
それまでせいぜい草刈り鎌くらいしか振り回したことがなかった私が、いきなり鍬を持って一日中働いたのですから、体への負担は相当なもので、生まれて初めて掌に豆ができました。豆は夕方頃には血豆となって、何も握れないほど腫れ上がり、80年たった今でも跡が残っています。
教官に怒られ蹴飛ばされながら従事した辛い体験でしたが、やがて大豆が実り、畑が一面黄色になると何とも言えないうれしさを感じたことも覚えています。
軍事教練も辛い記憶のひとつです。10キロ以上はあると思われる背のうを背負い、足にはゲートルを巻き、木製の銃に銃剣をつけて、厳しい教練を強いられました。真夏の訓練ともなると流れるような汗で全身がびっしょりになりました。 今と違って、途中での水分の補給などはほとんどありませんでしたから、倒れる者も続出しました。フラフラすると後ろから教官に「何をたるんでいるか!」と叱責され、足腰を堅い軍長靴で蹴られたものでした。
また、10キロ、20キロの行軍もしばしば行われました。とても勉強どころではありませんでしたが、そんな風景も戦時中であるから当然のこととして、受け止めなければなりませんでした。
軍事教練の教官は、だいたいは除隊した兵隊でした。憲兵よりは和やかですが、それでも相当厳しくやられました。
そんな中、どういうわけか私は教官に目をかけられました。4年生になると隊長をやらされました。刀がない形だけのサーベルを腰に、全校生の前に立って「集合!」「遅い!」「気をつけ!」「頭(かしら)ぁ、中!」「なおれ!」「休め!」と、大声で号令をかけたものです。
また、実際に三八式歩兵銃を持たされ、実弾射撃もやらされました。銃の重みは、今でも身体の中に感じることができます。
実弾訓練は全員ではなく、数人が代表して撃ちました。学校の裏の林に作った防空壕のあたりで的めがけて撃つのですが、もちろんなかなか当たりません。しかし外れると「何をやっているか貴様!」と怒られたものです。
当時の私には陸軍士官学校へ入るという夢がありましたが、学校は今話したような次第ですから、ほとんど勉強などできません。そのうちに、中島飛行機製作所宇都宮工業所へ勤労動員で通うようになりましたから、いよいよ勉強の環境ではなくなりました。
それでも、士官学校という夢を叶えるために少しずつでも勉強したいと考えて、歩きながら本を読んだりしました。教科書だけでなく、家にあった文学全集、講談本なども読みました。当時は交通量も少なかったので、そういうことができました。バスやトラックといった大型車両が横を通ると、埃がわーっと舞い上がって、私もその時読んでいた本も、真っ白になったことを覚えています。
今考えると、陸軍士官学校への進学は、夢というよりも「あこがれ」に近いものでした。明確なきっかけがあったわけではなく、いつの間にか当たり前のように目指していました。海軍ではなく陸軍、そして下士官以上へ任官という「夢」は、もしかすると宇都宮市が軍都であったことも関係していたかも知れません。陸軍士官学校は難関ですから、私は日頃から本を読んだり、敵の言語である英語を学んだりしていました。これがその後、医師を目指すようになった時、大いに役立ちました。
注5 学徒勤労動員 学徒動員とも言う。学生や生徒が軍需産業や食糧生産に動員されたこと。
■中島飛行機へ勤労動員
辛い勤労動員の中でも特に記憶に残っているのが、中島飛行機製作所宇都宮工業所です。こちらは確か1943(昭和18)年頃から終戦まで行ったと思います。
最近、新聞紙上に中島飛行機製作所当時の概要が掲載されました。それによれば、中島飛行機は工場だけで全国に102カ所あり、もっとも大きい工場は、巨大軍需工事として名を馳せた東京武蔵野町(現武蔵野市)にあった武蔵工場でした。生産の主力は戦闘機「隼」でした。隼は優れた陸軍戦闘機で、各方面での作戦で大きな戦果をあげていました。ちなみに中島飛行機は戦後「スバル360」と呼ばれる名車を作り上げた富士重工業となりました。「スバル360」は、モータリゼーションが進む中、日本人の足となり戦後復興に大活躍をし、今でもマニアの方が愛して止まない名車です。
中島飛行機の全工場に動員された学徒は、340万人にのぼるといわれています。軍需工場は米軍による空襲の目標にもなりましたから、学徒の中には犠牲者も出ました。米国資料によれば、犠牲者は200名にのぼります。
記憶を辿ると、敷地内には多くの工場棟が碁盤の目のように並んでいました。軍需工場ですから管理は厳しく、学徒がやたらに歩いて見てまわれる雰囲気ではありませんでした。そのため私には、全体の規模、人員数等は一切わかりませんでした。
就労時間は交代制(24時間連続稼働)でした。朝の点呼は8時30分で、昼休みは12時から12時45分まで。午後3時から15分(20分)の休憩があり、夜食は夕方6時から7時の間。それ以外は作業の連続でした。
食事は、昼は持参した弁当(主に大豆メシ)、夜は夜食(麦メシか大根メシか大豆メシ)のおにぎりが出ました。それを食べて終業(引き継ぎ)でしたが、その終業時間は午後10時までになることもあり、重労働そのものでした。当然、休みはありません。軍歌ではありませんが「月月火水木金金」で、日曜も全部返上の毎日でした。
自宅(野尻)から中島飛行機の工場まで、7~8キロほどあったと思います。8時30分の点呼に間に合うためには、5時30分には起床し、7時には家を出なければ、間に合いません。交通手段は徒歩のみでした。一時期自転車も試しましたが、物資不足でタイヤも無い、修理の部品も入らないということで、すぐに諦めました。
当時は育ち盛りでしたから、すぐに腹が減りました。空腹のあまり目先がチラチラし、リベット打ちの電動ハンマーは一定の位置が定まらず、ヘッドが割れたまま打ち込んだこともありました。上官の目にとまらないかとハラハラしたものです。しかし実際には、エンジンカバーのヒビの入ったものも、ほとんどが検査に通ってしまいました。私自身は、大空を飛ぶ高度な精密機械ですから、心配もことさらでした。私たちの幼い手でつくった飛行機が、すさまじい戦いの中でどのくらい役に立ったのかと考えると、夜眠れなかったこともありました。
何しろ、リベットを打つ時も居眠りしながら仕事をしていましたから、果たしてその何割が軍用機として通用したのか、はなはだ心もとなく感じていました。
夜の9時過ぎになると小腹が空くので、帰り途に畑に育つトマトやキュウリ、農家の軒先にあった干しイモなどを失敬することもあり、いま振り返れば空腹の毎日だったことを思い出します。
江曽島というと、野尻から7キロから8キロぐらいあります。その道のりを夜中に、腹を減らして帰ってくるわけですから、途中でいろいろ失敬したものです。サツマイモが干してあればサツマイモを、柿があれば柿を、1つ2つ失敬して、少しでもお腹を満たしました。
長い道のりを徒歩で帰りますから、家につくのは下手をすれば真夜中を過ぎました。風呂にも入らずに布団に直行し、泥のように眠ってしまいます。それで翌朝はまた午前5時に起床です。とても勉強などできませんでした。約2年間、毎日これの繰り返しです。今から思えば、よく続いたものでした。
そんな毎日でも、陸軍士官学校という夢がありましたから、合間を見つけては少しずつでも勉強をしていました。
ある昼下がり、弁当をすませ日当たりのよい窓辺に寄りかかって、英語の参考書を開いていました。勉強しようとしたのですが疲れが出て、ついウトウトと居眠りをしてしまいました。そのため、憲兵が近づいていたことに全く気づきませんでした。
靴音に驚いてはっと顔を上げた時には、時すでに遅し。いきなり参考書が空高く飛んで、憲兵の怒号が耳元で響きました。
「貴様!!こんなところで何をやっとるか! 敵国の書物をよんで何をするつもりだ! この本は預かっておくことにする」
自分は陸軍士官学校に行きたいので、英語を勉強していたのです――と必死に説明しました。そのおかげで参考書は、明朝担当の先生から届け返されてきました。
■玉音放送を聴く
昭和20年8月15日、あの玉音放送を、私は自宅で家族とともに聴きました。平日なので本当であれば工場へ行っていたはずですが、理由は思い出せません。
当時を思い出すと、父は戦時下にも関わらず恐らく戦争に勝てると思っていなかった節がありました。ふだんから「この戦いは、近いうちに日本が負ける。竹やりでB29と喧嘩にならないのは、当たり前のこと。まもなく米軍が上陸してくる。それに備えてどうするのかを考えるべきである」と口に出していたほどです。今思えば、このような発言を憲兵や警察が聞いていたら、大変なことになっていたでしょう。
一方私は、士官学校に進みたいと考えていたほどですから、日本が負けるなどということは考えもしませんでした。そのため、玉音放送の直後に、父との間で激しい口論になりました。私は体の毛を逆立てて烈火の如くおやじに反論反抗しました。
「精神一到何事か成し遂げるということがある。やってみなければわからないじゃないか」
と精神論で向かい合い、激しい論争となってしまったのです。
それでも、敗戦の事実は受け入れざるを得ませんでした。その後、私は目標を医学に変えて医大を目指しました。父や、家業を継いだ兄も賛成してくれました。当時、医学部に進学すると途方もなくお金がかかりましたが、私の実家は商売も順調でしたから、学費を出してもらうことができました。現在の私は、そこからスタートしたのです。
写真アルバム
(阿部敏夫氏蔵)
上段左 学徒動員-宇実の森で同級生たちと
上段右 縁は異なもの-我が結婚式。お稲荷さんの前で。昭和29年11月
以下出典(宇都宮中島会編集委員会1989「飛翔の詩」宇都宮中島会より)
中段左 終戦時の宇都宮工場全写真
中段右 宇都宮製作所工場平面図
下段 昭和20年7月 11棟総組立工場に集結した産業戦士達
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